シミューラクルの戯れ

確かに最近の私は成海璃子成海璃子と騒ぎ続けた成海璃子バカであった(同じ固有名詞を三つも連ねりゃ、そのバカさ加減も程度が知れるであろう)。私があまりに彼女に熱を上げるものだから、私の学問的怠慢を懸念する声も出てくる始末である。

けれども私も、何も学術的な思索を試みていなかったわけではない。今回は試みにその一端を披瀝申し上げたいと思う。……といっても、導入はライトノベルの話題からだけれど。

谷川流の隠れた名作『学校を出よう!

学校を出よう!〈3〉The Laughing Bootleg (電撃文庫)

学校を出よう!〈3〉The Laughing Bootleg (電撃文庫)

谷川流といえば『涼宮ハルヒ』シリーズ(角川書店、2003年〜、現在全9巻)の著者としてお馴染みだが、彼は角川子飼いの作家というわけではなく、メディアワークス電撃文庫からも『学校を出よう!』(2003〜04年、全6巻)などを上梓している。

学校を出よう!』はEMP能力と呼ばれる異能の超能力を発現させてしまった少年少女が集められる公立学校・第三EMP学園(第一、第二学園も存在する)を舞台として展開されるスラップスティックSFコメディ(どたばたギャグ)である。作品のテーマには『涼宮ハルヒ』と共通するものがあるが、私の印象では『学校へ行こう!』のほうが難解である。というよりは、『涼宮ハルヒ』のほうがボーイ・ミーツ・ガールと“萌え”の要素が意図的に取り込まれているぶん、人口に膾炙しやすかったと私は見ている

本作第3巻では、第三EMP学園で同一人物の学生が二人、三人……と増殖する事件が発生する。自らは誰かのコピーであると自覚している者もいるが、そうではなく、自らこそがオリジナルであると確信しているコピーも出現していた。

主人公の一人である光明寺茉衣子(こうみょうじ・まいこ)のもとにも、ある朝目を覚ますと、もう一人の自分が眠っていた。両者ともどこを探しても違いはなく、お互いとも自分こそが“本物”であると信じて疑わなかった(作中でも便宜上同じ似姿の茉衣子を区別すべく、これらの茉衣子たちにそれぞれ水色と桃色のリボンをつけて、水、桃と呼んでいる)。だが茉衣子にとっての不幸は、彼女のコピーはこのもう一人だけではなく、様々な人物のもとに、それそれの人にとって理想的な茉衣子の姿で現れているということだった。

そして二人の茉衣子を卒倒させかけたのは、彼女(たち)が徹頭徹尾心底嫌っている変人の先輩能力者・宮野秀策のもとにも茉衣子のコピー(優)が現れてしまったことであった。宮野は、茉衣子を恋愛対象としているかどうかは不明だが、ともかく彼女のことを非常に気に入っていた。この茉衣子(優)は宮野にとても優しく、従順であり、コピーであることは明白であるにせよ、姿形は自分と同じコピーが宮野に奉仕することが、茉衣子(水)と(桃)には我慢できなかったのである。

若菜〔主人公の一人である高崎佳由季の妹で、茉衣子のルームメイト〕がニコニコと見守る中、茉衣子(水・桃)は冷めたゆで卵とゴムのような歯触りのチャーシューをもそもそと食べる。少しは元気の元になるような気がしてきた。おかげで頭も回り出し、宮野への恩讐が再燃してくる。これから夜が来る。宮野が例の茉衣子モドキと寝床を分かち合うことは間違いないと茉衣子(水・桃)は信じていた。その信仰が想像力を高め、妄想が憤激となって茉衣子たちの胸を焼くのだった。*1

コピーは“わたし”?

姿形は似ておれども、明らかに自分ではない自分のコピーが、男性の性の慰み物にされることに強い拒否感と嫌悪感を覚えることは、須らく女性にとって普遍的な反応なのだろうか。コピーはコピーであり、自分(オリジナル)ではないというのに。

例えば、全く瓜二つの双子の女性姉妹がいると仮定しよう。三倉茉奈・佳奈姉妹くらいそっくりの、全く見分けがつかない一卵性双生姉妹である。いくら自分が相方と瓜二つだとしても、一方が望まない男性とセックスをしても嫌な気はしないであろう。なぜなら彼女は自分ではないからだ。双子の一方にとって、相方は自分とそっくりな他人に過ぎない*2

けれどもバラエティ番組『アメトーーク』(テレビ朝日)においては*3イジリー岡田に自身の写真集のポートレートを猥雑になめずり回されたアイドルの夏川純時東ぁみは、猛烈な拒否反応を示していた(もちろん、バラエティ用のリアクションという可能性もあるが)。犯されたのはあくまでも写真(コピー)であって、自分(オリジナル)ではないというのに*4

自分自身の生身の身体が性の慰みものに使われようとするとき、それが望むものでなければ、女性は当然拒否反応を示すだろう。世間の強制猥褻事件がこれである。だが生身の身体を撮影した写真が男性の自慰行為のオカズに用いられたとき、拒否反応を示すかどうかは女性個々人によるだろう。上述の女性タレントたちは、自らの写真も性の対象となることを拒否したわけである。

けれどもテレビタレントとは“見られる”ことで対価を得る労働である。より具体的に言えば、カメラという複製技術で自らのコピーを造り、テレビや雑誌などのマスコミュニケーションを通して流布し、見られることによってカネを稼ぐのである。“見られて”いるのは彼ら自身(オリジナル)ではない。彼らの映像や動画(コピー)である。言うなれば、テレビタレントは自分自身の生身の身体(オリジナル)のコピーを売っているのである。

労働と消費されるコピーの本質

労働は須らく労働する者の身体に基づく。そうした原則の前では、政治家であろうが医者であろうが売春婦であろうが、労働に貴賎は生じない。そして労働者が、自らの身体に基づく労働を対価として得たものは、労働者のものになる。あまねく労働によって発生した賃金が労働者のものになるのは、こういう理屈である。

だが労働者たるヒトが欲するのは、カネでもモノでも、はたまた名誉でもなく、他者から与えられる“承認”である。自分がこの世界に存在してもよいというレゾン・デートルを基本的に私たちは欲するのである。ヒトは自らの為した営為について他人に褒められると、基本的に嬉しい。そのときヒトは他人から承認を与えられ、レゾン・デートルを手に入れるのである。高度に市場化した現代においては、そうした“承認”は労働の対価として与えられる賃金の形をとることが多い。

各人が他者から承認を得る方法は多種多様であり、また一人につき一つというわけではなく、複数あるほうが常であろう。ただ少なくとも、昨今の世界においてはより勤勉で、より生産性が高いと一般に考えられている営為にこそより高いプレスティージが与えられる傾向にある。暇な時間に書いた、誰に読まれるとも知れないブログ記事よりも、月収手取りで20万円稼げる労働のほうが、他者が“承認”を与えることは議論の余地がない。

カネを稼ぐ職業として、自らの生身の身体のコピーを売ることを選んだ者の一人が、テレビタレントである。彼らは自分のコピーが見られることを欲望する。自分のコピーが見られ、賞賛されることで、彼らは他者から“承認”を受け取るのである。

受け渡されたテレビタレントのコピーは、それを買った者がどのように“消費”しようと自由である。女性タレントの水着姿やヌード姿を収めた写真集を、男子が自慰行為の助けにすることなど、被写体自身も当然念頭に置いているだろう。

けれども上述のように、グラビアタレントと言えども、実際に自分のコピーが性的に犯されようとする場面に遭遇したときは、やはり嫌がる者もいるのである。それがテレビタレントではない女性ならばなおさらであろう。特に気もない男子に「お前をオカズにオナニーした」と言われて引かない女性はきっと稀だ。

このようにオリジナルが、コピーと自己自身とを同一視することは、コピーをコピーではなくしてしまう。『学校へ行こう』でも増殖したコピー人間を、一部の能力者たちが〈シム〉と呼び、どうやらそれがジャン・ボードリヤールの造語「シミュラークル」にちなんでいることが示唆されているように*5、オリジナルであるテレビタレントと、複製技術によって生み出されたそのコピーとが同一物になってしまう。すなわちオリジナルとコピーの区別がない、シミュラークルになってしまうのである。

コピーの受信者の数だけ“オリジナル”が存在する、という矛盾

カメラという複製技術の到来とともに映画が舞台演劇にとって代わろうとしたとき、ヴァルター・ベンヤミンは映画が映し出す役者の演技にはアウラがないと断言した(『複製技術時代の芸術作品』)。アウラとは、オリジナルだけが持つ一度限りの霊的な雰囲気である。

一方こんにちのマスコミュニケーションを介したコピーの受信者たちは、彼らに与えられるものがコピーであることをすでに知っている。より正確を期せば、オリジナルではないことを弁えている。時としてオリジナルに対する憧れを胸に秘めながら、代替物としてコピーを受け取り、眺めることによって満足しようと努めるのである。

けれども、テレビタレントAにファンが100人いるとして、その100人全員が同一の「オリジナルA像」をイメージしているかどうかはわからないのである。恐らく、百人百色のA像が存在するはずである。少なくともそうでなければ、ファンは自分の所有しているAのコピーが、Aのコピーであると確信できなくなってしまう。そしてA自身も「我れ斯くあるべし」という101人目のA像を持っているはずである。

彼ら個々人にとっては自分の抱くA像こそがオリジナルAなのだが、それゆえにオリジナルが101人成立してしまうのである。そして彼ら個々人にとっては、自分以外の抱く100人のA像こそはまがい物であるのだが、従ってオリジナルがどこかに確実に存在するはずなのだが、それには誰も辿り着けないことになってしまう。

このようなことは特にテレビタレントに対してのみ起こり得る事柄ではない。私たちの日常の人間関係においても、ある人物Xに対して人によって印象が(一見同じように見えるかもしれないが)微妙な違いを伴って異なっている。X自身が想像もしていなかったX像を他者から提示されて、X自身が驚かされるというケースも少なくはあるまい。

このようにして受信者の側でも、コピーがオリジナルになってしまう。というよりは、少なくともコピーが“単なるコピー”ではなくなってしまうのである。すなわちシミューラクルである。

当然、絶対的なオリジナルというものは存在する。けれども当座はそれを問題にしない。重要なのは、誰が何をオリジナルだと思うかという主観的な問題である。本稿におけるシミュラークルは、コピーの発信者(=オリジナル)と受信者との遣り取りを第三者の視点から眺めたときに見えてくるものである。

複数のコピーたち=微細な点で異なる“オリジナル”たち=シミュラークル

結局、コピーの発信者(=オリジナル)から受信者へと与えられるコピーは、発信者の側でも、受信者の側でも、各人の主観的にはオリジナルとなってしまう。だからテレビタレントも自分たちが“見せて”いるものを自分自身だと確信しているし、そのファンたちもオリジナルから生み出されたものであるという確信のもとにコピーを“見て”いる。

発信者に熱狂すればするほど、受信者たちはますますオリジナルに一歩でも近づいた象を手に入れたいと思うようになる。それゆえに受信者たちはあたかもオリジナルの断片を広い漁るかのように、あまたのコピーを集めるという空疎な努力を続けるのである。

だがそうしたオリジナルの復元作業は、どこまで行っても各受信者たちの発信者像しか示しはしない。第三EMP学園において大増殖した〈シム〉たちは誰かがイメージしたX像が具象化したものであった。だから突如現れた光明寺茉衣子のコピーたちが姿こそオリジナル茉衣子と極めて酷似していたにもかかわらず、その精神は茉衣子(水・桃)の一方を除いて(当然、もう一方はオリジナル茉衣子だが)、その精神は具象化させた者たちの都合のいいように作られ、結果として姿は同じでも中身の違うコピーができ上がったのである。

それでもなお、発信者は自らのコピーをオリジナルとして“見せたい”し、受信者は自らの神(=発信者)のコピーをオリジナルとして“見たい”のである。これらのコピーは多くの共通点を持ちつつも、少しずつ異なっている。ならば、そのコピーの一つと、絶対的オリジナル(=大本の発信者)を並べたときに、受信者たちはどちらが“本当のオリジナル”であるか見分けられるのだろうか。私には、見分けられないように思われる。それどころか、受信者たちにとって都合のいいほうを“本当のオリジナル”と断ずるのではあるまいか。キリスト教徒にとって神の子イエスは神々しく後光が射しておらねばならず、乞食のようにみすぼらしい格好をしていては彼と判じられないのと同様に、ファンにとってアイドルは常に可愛らしくスポットライトを浴びて輝いておらねば、かの人と見分けられないように。

そうしたシミュラークルの戯れが、発信者と受信者の間で執り行われる生身の肉体のコピーを遣り取りの本質であり、アイドルとファンとの間で行われる脳内イメージ交換の本質である。そして複製技術の力を借りたそうしたシミュラークルの戯れは、各人においてオリジナルへ転化する生身の肉体のコピーが“見られる”ことを労働の一つとし、金銭を発生させ、“見られた”者が“承認”を与えられることを可能としたのである。

余談

ここまで、一般的だと思われるファンのアイドル受容法を縷々述べてきたのは、私自身がアイドルやタレント本人に会いたいというファンの心理が全く理解できないからである。タレントでなくても、作家などでもいい。

例えば私は、どのタレントや作家に対してもファンレターを書いたことがない。面倒くさいという理由もなくはないが、それ以上に、別に本人と接点を持ちたいとは思わないからである。歌手はいい歌を、作家はいい文芸作品を、アイドルはさしずめ“見る”に堪えうる素晴らしい容姿を私に提供してくれれば、私はそれで満足である。それらのエンターテイメント提供者の精神を自分自身の脳内に複製・復元しようという欲求は全くない。彼らの精神なんか正直どうでもいいのである。

世人は、友人のお兄さんの妹が沢尻エリカだと聞いたら(筆者の実話)、テンションが上がっちゃったりするのだろうか。私は彼女にほとんど興味がないこともあるだろうが、全く話も膨らまなかったのである。

私が最近騒いでいる成海璃子についても、本人に会いたいという気はさらさらない。もっと言えば、成海は中学3年生だが、ラディカルなミソジニストの私にとっても、中学高校生の女子の精神はとりわけ邪悪なものでしかない。私は彼女の精神に一切興味はない。彼女において私が好きなのは彼女の容姿と声だけであり、そのコピーだけを提供してくれれば私は満足なのである。

*1:谷川流学校へ行こう!(3) The Laughing Bootleg』2003年、メディアワークス、p.237。〔 〕内は引用者の補足。

*2:私自身は双生の相方をもっているわけでもなければ、近親者に双生児がいるわけでもないが、『学校へ行こう』作中において高崎佳由季の双生姉妹・春奈と若菜(春奈は故人)は幼少期にはお互いがお互いを同一視していたという。双生児の幼少期には須らくこうした傾向が見られるかどうかは、私にはわからない。

*3:07年8月23日の回。

*4:今日(9月27日)に同番組の総集編を見ていて思ったが、女性タレントが悲鳴を上げたのは、自分のコピーが貶められることよりも、そもそもイジリー岡田がキモかったからという可能性が大である。

*5:前掲書、p.243。