コラム50回の節目に

つい先日記事投稿100回を迎えたと思ったら、今度はコラム記事が50回を迎えるという。先日の話は、このブログは記事を「コラム」と「日記」に大別しており、それ以外の若干のカテゴリー記事と併せて、投稿100回という内容だったが、今回でそのうちコラムだけが単体で50本目になるのである。亀の歩みより鈍重な牛歩戦術だが、幾許かの感慨がないわけではない。

◆どうすればアクセス数が増えるか

「日々徒然」にも、どうしたわけか、固定の読者がいる。そのうちの何人かは、自らの「アンテナ」サーヴィスに「日々徒然」を登録して、私が更新するたびにその通知を受けて閲覧している。すると、アンテナもまたインターネット上のウェブページに過ぎないから、彼らがアンテナページ上のリンクをクリックして私のブログにアクセスすると、リンク元を追える仕組みになっているはてなダイアリーからは、私は彼らのアンテナページのアドレスを知ることができる。

ところで、はてなが提供するアンテナサーヴィスは、そのページはいずれも"a.hatena.ne.jp"でアドレスが始まっている。最初の"a"は"antenna"(アンテナ)の頭文字である。そしてはてなダイアリーのアドレスはいずれも"d.hatena.ne.jp"で始まっているので、もし私のブログを登録しているはてなアンテナの利用者が、同時にはてなダイアリーも利用していれば、"a"を"d"と入れ替えれば、私は私の読者のブログに容易に辿り着くことができるのである。

私の読者にも、ブログを書いている者は何人かいた。そのうちの一人がある日の記事で、どうしたらブログのアクセス数が伸びるかについて言及していた。私の読者氏は、アクセス数が多いタレントのブログを攻撃してトラックバックを送信しまくれば、アクセス数が激増すると(冗談ながら)アドヴァイスしている。そして、面白い記事を定期的に投稿すれば着実にアクセス数は増えると付け加えている。

◆誰に向けて書かれたか

話のオチはここからである。私が余所様のブログの単なる観賞記を書くわけがない。

「もしやこの記事は、オレの7月19日の記事*1に対する応答なのではないか?」

私は「このブログは、大衆に読まれることを望んではいない」と書いた。それに対して私の読者氏は、私の真意を逆に汲み取って、アクセス数向上のアドヴァイスを記した――と私は考えてしまった。

こう思った背景には、私の彼のブログへのアクセスが、すでに彼に知られているという根拠なき思い込みが大前提にある(彼の投稿日が、私の記事のすぐあとだったということもあるけれども)。私が彼のブログを見ているかどうかを、彼が知っているかどうかは、実は私にはわからないのである。

だが、読者氏の親切に対してどう応答したものかを思案しているうちに、やはり至極当然な疑問が頭をもたげてきた――「本当にあの記事はオレに向けて書かれたものかあ?」

読者氏のブログの、前後の文脈をいちいち記さず、それを共有している者同士にしかわからない内容を、それでも丹念に汲み取り、判然としない情報を検索して整理してみると、どうやら、というかやっぱり、私などに向けられた記事ではなかった。その記事は、彼の好きなお笑い芸人が最近ブログを開設したのだが、どうしたらアクセス数が増えるかを悩んでいるその芸人に対して向けられたものであったのだった。

◆自己顕示欲の肥大化――こんにちのブログ人気の背景

そもそも、私の該当記事を名指ししてはいないのだから、彼が私のために書いてくれたなどと考えるのは、自惚れも甚だしかった。私は、誰とも知れぬ親切な人が、誰とも知れぬ私のブログを面白がって読んでくれていて、あまつさえ応答してくれるものだと疑わなかったのである。

こんにちのブログやソーシャル・ネットワーク・サーヴィス(SNS)の隆盛について友人と議論したとき、友人は「見られたい、注目されたいという自己顕示欲の肥大化だ」と結論付けた。なるほど彼の言葉は、「読まれることを望んではいない」と言い切った私の実体験によって証明されてしまった。そのように断言した私ですらやはり、注目されたいという自己顕示欲を持ってブログを書いていてしまったのである。

玄田有史のような労働に関わる領域(労働経済学、労働社会学など)を研究している者ならば、人はなぜ労働するのかと問われれば、他人に自分の存在を肯定されたい、承認されたいからだと答えるだろう。ところが最近の経済弱者は、労働を通じてそれを充足させることができない。赤木智弘*2はその典型例であろう。

こうした自己肯定感を損なった経済弱者の出現と、ブログやSNSなどインターネット文化の隆盛とは、恐らく相互に連関があると私は見ている。つまり、仕事で認められない「負け組」がブログやmixiに殺到し、自己顕示欲を肥大化させ、労働で得られなかった承認の代替物を求めているのである。

大学院生である私は、経済的基盤の不安定さから言えば、赤木のようなフリーターと何ら変わりはない。むしろ院生こそ承認を求める最たる動物かもしれない。けれども大学から奨学金を給付されて研究している私は、彼らと同じ水準に下って思考しては、カネを貰う資格がないし、学者の端くれたる資格もない。

私は大衆におもねらない。「このブログは、大衆に読まれることを望んではいない。」今回の一件には、研究者としての反省を突きつけられた。

……のだけれども、大衆を啓蒙すべき機会がないわけでもないから、私の論文が広く人口に膾炙してもらいたい場合もある(『受験の神様』に対する私の批判が、まさにそうである)。正直、非常に悩ましいところではある。

*1:http://d.hatena.ne.jp/RYUSUKE/20070719#p1

*2:1975年生。『論座』2007年1月号に掲載された論文「『丸山真男』をひっぱたきたい――31歳フリーター。希望は、戦争。」でアカデミズムとジャーナリズムでセンセーショナルな注目を集める。