「暴走」させたのは誰のせい?

世間で噂の話題に「パブロフのワン君」の如く“生き生き”と吠え立てると、私も仲正昌樹からドロップキックをくらいそうだが、先日書いた論考との関連から、敢えて今回の「沢尻エリカ騒動」に言及したいと思う*1

日本人は“お高い”のがお好き?

私には今回の騒動が理解できない。彼女のいわゆる“高飛車キャラ”は別に今に始まったことではないし、むしろ私はソレが世人の琴線に触れて彼女は人気を博していたものと思っていた。彼女が出演しているキシリッシュやペプシNEXのCMだって、そのまんまのキャラクターではないか。

日本の世人はそうしたキャラクター、“敬語が話せない傍若無人キャラ”の沢尻が好きだったのではないか。逆に私は、こういう頭の悪そうな女が大嫌いだ。だから先週末(9月29日)からの今回の騒動も「いつものことか」と興味がなかったから情報を把握するのも遅れたし、そして理解が遅れた(というか、できなかった)。

例えばボクシングの亀田三兄弟も、テレビで見ている限りは、全く敬語を話せないようだし、また話す気もないようである。でも彼らは注目されていたし、いっときは彼らの試合の視聴率は高い数字を叩き出していたのである。沢尻と同様に、日本人はああいう“敬語が話せないヤンキーキャラ”が好きだったのである。言うまでもなく、私はああいう頭の悪そうなヤンキーが大嫌いだ。

そして沢尻の件にせよ、亀田三兄弟の件にせよ、誰かご意見番が苦言を呈することによって彼らに対する集中放火が始まる。亀田の場合はやくみつるだったし、沢尻の場合は和田アキコ(9月30日の『アッコにおまかせ!』)だったように思われる。だから、もしやくや和田のようなご意見番からの批判がなければ、彼らはますます“傲慢キャラ”をアピールし続けただろうし、マスコミはその尻馬に乗って、彼らのキャラを大衆へ流布し続けたはずである。

“お高い”のは、「地」かキャラか

先日私は、マスコミュニーケションで流布されるテレビタレントの「オリジナル」と「コピー」について、誰も読まないような、ブログとしては比較的長い論考を書いた(コラム:第53回 - 日々徒然)。

つらつらと衒学的に難解そうに書いてしまったが、その論考の諭旨は、以下の通りである。ある人物Aの実体(オリジナル)は、マスコミュニケーションの先にいる受け手(受信者)の主観によってA1、A2、A3……というように無限に、内容を異なって複製(コピー)されるが、それらA1、A2、A3……が正確に細部まで一致することはおよそありえない。またマスコミという媒介物を通し、自分の目で見ているわけではない以上(もっとも、自分の目で見ていたとしても)、人物Aの絶対的な実体a(オリジナル)が、A1らコピーと一致することも絶対にありえない。

またしても衒学的に書いてしまったが、要は、テレビタレントがブラウン管(今なら液晶モニターかしら)の向こうで[表象=再現前化リプレゼンテーション]するものは、それを見ている我々にとっては須らく“キャラクター”でしかありえないということである。

だから、沢尻や亀田三兄弟は、実際に敬語の話せない高慢ちきの阿呆なのかもしれないが、テレビ受像機のこちら側で見ている私たちにとっては、そうしたイメージは全てキャラクターとしか言いようがないのである。それが彼らの絶対的な実体(オリジナル)などとゆめゆめ思い込まないことだ。それを承服した上で、そうしたキャラクターに不平不満や異議申し立てするのが、テレビ受像機のこちら側いる私たち「受信者」の権利である。

どうせキャラクターよ

しかしながら、どうせキャラなんだから、そこまでいきり立たなくてもよくね? というのが、今回の「祭り」に乗っかったテレビ視聴者たちに対する私の疑問である。大体、日本人には、上に示したように、今まで沢尻のそのようなキャラクターをある程度受容してきたという負の経緯があり、いわば沢尻と日本のテレビ視聴者は共犯関係にある。それを多少増長したくらいでいきなり手の平を返されるとは、実は一番戸惑ったのは沢尻エリカ自身ではあるまいか。

また、多少叩かれたくらいで、カメラの前で号泣し謝罪してしまう沢尻も、戦略の浅さが窺える――つまり、何かしら深い考えがあって、あのような高飛車なキャラクターを提示していたのではないということ。彼女の正義と信念に基づいてあのようなキャラクターを提示していたのだとすれば、いとも簡単に自己否定するなんてことはありえないからだ。

恐らく所属事務所のスタッフたちとともに、事態の収拾を図りたかったのだろうが、そうした変わり身の早さは(どうせキャラだったとしても)受け取り方によっては結局信用を落とすように思われる。「今まで生意気そうにしていたけど、間違いをすぐに間違いと認める実は素直でいい子なんです」キャラなんじゃないですか? 彼女は女優だ。涙腺の開放なんて、水道の蛇口を捻るより簡単に違いない。

21歳は完全なおとなではないが、もはやガキでもない。泣けば許されると思ったら大間違いだ。

また、一瞬でも彼女を支持していた日本の視聴者も猛省すべきだ。今後ああいうバカ女を応援しない。少なくとも、調子に乗らせない。調子に乗らせるなら、今回の高飛車な態度も「さすがエリカ様!」と賛美し続けるべきだ(実際に先月末には、そういう態度を表明したマスコミがあったような記憶がある)。日本の視聴者が持つ、移ろいやすい「気分」もまた、今回の騒動の決して小さくはない原因の一つである。

私としては、彼女に限ったことではないが、このテの勘違いバカ女は大嫌いなので、早々にお隠れ願いたいと思っていたところである。極力目に入らないように努力してきたが、それゆえにふとしたときに目撃してしまうと、不愉快だったから。

一体どこのどいつが“お高い”のがお好き?

私が理解できない点はもう一つある。こんにち「エリカ様」は新聞や雑誌では散々称揚され、褒めちぎられてきたが、一体日本国民のどこのどいつが彼女を支持しているのだろうか。本当に彼女は人気女優だったのか。

私が彼女を毛嫌いする理由は上に述べた通りだ。その私は“極めて普通”な感覚を有した“真人間”だとは思わないが、一般常識にそこそこ則した一応社会的な人間であると自負している。つまり、沢尻を嫌う私の神経は他の人にも理解されるだろうと思うし、だからこそ今回の沢尻の傍若無人さに“祭り”が燃え上がったのであろうと推測する。亀田家の連中が叩かれたのも、“ちょっと調子に乗りすぎた”からだろう――いい気味だ!

言うまでもないが、今回の一件以前から彼女を支持する者もいれば、私のように反感を抱く者もいたことは確かである。そして当然“未だに”彼女を支持する層が存在しつづけていることもまた事実であろう。

けれども、不可能を承知で、敢えて極めて普通な一般人を代表して言わせてもらえば、彼女のような傍若無人なキャラクターが視聴者に広く人気を博すとは考えにくいのである。例えば、押尾学はどこに消えたのだろうか。彼はもう戻っては来れないだろう。反町隆史はいつの間にか見事にキャラを変えて生き残っている。先に挙げた亀田三兄弟も早晩消えるに違いない*2。少なくとも、各マスメディアの関心事ではなくなりつつある。

それにしてもなぜ、沢尻は若者にもてはやされるのか。医師で作家の米山公啓氏が解説する。

「いまの若者は大衆に迎合したいという願望がとくに強いのです。だから他人と同じブランド品を身につけないと安心できない。また、親の言うことを素直に聞き、人生の冒険を極端に怖がる。こうした従順な性格だからこそ、反逆する沢尻さんの生き方に憧れを抱いているのです。悪役の亀田兄弟に声援を送った心理と同じです。沢尻さんが自由奔放な生き方をするかぎり、若者は彼女を教祖のように支持するはず。沢尻人気はさらに盛り上がりますよ」*3

以前友人に示唆されたことだが、日本には「ヤンキー文化」が存在するという。つまり日本人の中にはツッパリやアウトローが好きな者がいるというわけだが、私に言わせれば、「盗んだバイクで走り出す」尾崎豊なんてその最たる例だろう。その起原を辿ればどこに行きつくかはわからないが、“あの”石原慎太郎の『太陽の季節』(1955年)は避けて通れないだろうし、テリー伊藤に言わせれば、沢尻は石原裕次郎を髣髴とさせるそうだ*4――そんなこと言ったら、いまの慎太郎だって、十分“ゴロツキ”である。

マーケティング理論からすれば、一部の層であってもそこに強烈にアピールする力を持っていれば、そのタレントはテレビ番組やCMなどに採用されるだろう。つまり、若い層にさえ影響を与えられるのであれば彼女を起用したい、と考えるテレビ局やスポンサーは枚挙に暇がないのである。それゆえ沢尻エリカは存命してきた。

マスコミが作り上げた「エリカ様」

多かれ少なかれ、沢尻にいずれかの層からの人気があったことを認めるのは、私もやぶさかではない。けれども逆に考えれば、テレビ番組に出演してて、いくつかのドラマや映画では主演を努めているということは、一定以上の人気がなければ不可能である。そして出演数を増やし、知名度を上げることによって、人気を稼いでいくのである。

そう、知名度を上げるためにはとにかくメディア露出を増やすことである。テレビのみならず、新聞や雑誌でも注目されれば、そのタレントの名前を見ない日はなくなり、ますます注目されていくのである。

それは新聞や雑誌の記者にとっても好都合である。とにかく話題を振りまいてくれるテレビタレントを追いかけてさえいれば、載せる記事に困ることはない。

マスメディアは往々にして、事実とはかけ離れたタレントイメージを作り出すことがある。沢尻の場合その結果が、例えば「沢尻会」や、「長澤まさみとの不仲」である。沢尻に言わせれば、そんな取り巻きも、長澤との不仲も有り得ないという。けれども若手女優やタレントに取り巻かれる“女王様”のイメージや、人気を二分する若手女優の対立構図なんて、もし本当にあればマスコミを賑わしそうだし、だからこそマスコミはそれを捏造し、世人たちはそれを空想して愉しんでいるのである。ここまで来ると、もはや「シミュラークルの暴走」である。

バカなマスコミと日本の世間よ、自浄せよ!

沢尻をチョーシに乗らせたのはマスコミと世人であるにもかかわらず、一部の識者を除いては、いずれも自らの罪科に無自覚である。あるいは「また記事の実をつけてくれたぜ。種を蒔いておいてよかった」とでも考えているのだろうか。

チョーシに乗り過ぎた沢尻エリカは最悪の被告人である。けれども、彼女を支持していたマスコミやファンたちも同罪である。TBSは特に最悪だ。その点では沢尻に同情しないでもないが、

頼むから、今後ああいうような馬鹿者を公共のメディアに映し出さないでほしい。「美しい国」にふさわしい「国家の品格」を備えたテレビタレントを見たいものである。メディアの向こう側の、コピー生産者の皆さんは、その点重々ご承知置きいただきたいものだ。

*1:本稿は9月末に書かれ始め、10月8日に中断された。執筆再開は21日だが、その間にいわゆる「亀田家騒動」(10月11日)が発生している。本稿には時事的な齟齬が散見され、また批判が効力を失いつつあるように思われるが、ご了承いただきたい。

*2:この箇所を書いたのは10月8日以前である。21日現在、亀田家の連中は急速に世間からの支持を失っている。

*3:http://news.www.infoseek.co.jp/topics/entertainment/n_sawajiri3__20071007_20/story/06gendainet07023776/(07年10月7日)

*4:http://news.livedoor.com/article/detail/3327794/(07年10月8日)