(大学受験生を応援⑦)私の大学生生活

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前回私は自らが大学生でありながら、大学生を批判する文章を書いた。ならば私が一体どんな学生であるか記して供するのも一定価値があると思われる。また掲示板でも「リュースケさんは、いったい何処に合格したのか、初見の人にはわかりにくいんじゃないかな。もどかしさを感じてしまうかも」という意見を頂戴し、さすがに在籍校名を挙げることは憚られるが、学生生活ならば何の問題もなく語れると考えたからだ。これから大学に入学するであろう受験生諸氏に大学生の一例を示すことによって、受験に対して何らかの動機付けを与えられるなら幸いである。また、悪い影響を及ぼさないことだけは切に祈りたい。


尚、予め申し上げておくが(しかし言わなくてもおわかりであろうが)、私は普通名詞としての「大学生」が嫌いである。自分自身がそこに帰属しているという意識は全くない。


私という大学生を形容する場合、或る面からは「普通」と言えるだろうし、他方「普通じゃない」とも言えると思う。ただ個人的に自らに願うのは「『学問』に対しては常に真摯で在りたい」ということである。これは恐らく「勉強」を強いられている高校生にはわからない心境であろう。


大学生の為す「勉強」や「学問」とは、他人から与えられたり、押し付けられたり、はたまた義務付けられたりするものではない。自ら主体的に選び取るべきものなのである。簡単に言ってしまうと「自分が勉強するものは、自分で選ぶ」ということである。これが高校までの「勉強」との最大の違いであろうか。だが、高校の延長で大学に入学した大学生は存外どころか大勢を占め、その状況は私が前回のコラムで批判した「彼らはしばしば『就職のために大学に来た』と嘯【うそぶ】くが、では就職の為に何を学ぶかというヴィジョンがない」という一文に繋がるのである。私と彼らは価値観も興味の対象も何もかも合わないので、話を合わせようとする努力すらしようとは思わない。高校までなら、そういう努力はかなりの頻度で要とされたが、大学なら付き合いたくない奴は付き合わなくても問題がないので、私にとってはかなり楽である。


しかし、所属する学部や専修が課す、もしくは教職課程を履修しているために、「必修科目」というものが存在し、これらが私を酷く悩ませる。私の専修である独文は「文学・言語・思想の三本柱を軸としたカリキュラムを組んでいる」云々とかいうことで、否応なく組み込まれる講義がある。それら3つの学問に対しては一応興味もなくはないが、さすがに中近代のドイツ詩歌と言われると、対応しきれない。というか教員は往々にして独善的な講義をしがちなので、殊更につまらない。また教職課程の講義においては「教職に関する科目」というものが、他の受講者も同様であろうが、恐ろしくつまらない。「教育心理学」という科目は、そもそも心理学なんて微塵も興味がない私にとっては殺人的である。しかもこれが月曜日の1限(9:00〜10:30)なので、尚更に憂鬱だ。


しかし単位は欲しい。単位をもらえないと教職は取れないし、それ以前に卒業ができない。社会科学系の学部だと出席を取らない講義が多く、誰かが執ったノートがあれば試験は対応できるという。しかし私は人文科学系の文学部所属である。出席は厳しい(らしい。というのは私は他学部の様子を知らない)。


じゃあどうするか。出席は確実にする。しかし講義は聴かない。教室の隅っこに座って読書に耽るのである。この時読んでいる本が「私が主体的に選んだ学問のための本」である。同様に講義を聴かない学生は勿論いるが、大教室ともなると後ろの方で私語に励む者が大勢である。私をそういった連中とは一緒にしないでほしい。講義を聴いていない点では共通だが、少なくとも私は講義を聴いている学生の邪魔にはならないように努めている。


或いは、意図的に遅刻していくのである。出席をどのような形(呼名なのか、出席簿に直筆で記名なのか、出席カードなのか)で取るかをまず把握しなければならない。教員によりけりだが、大抵の教員は遅刻を歯牙にかけることはまずない。「前の授業が演習で、議論が長引いて……」などという小賢しい嘘は有効である。何故なら真偽を判別しがたいからだ(それ以前に「遅刻を歯牙にかけることはまずない」が)。前述の「教育心理学」は、私は9:40〜50頃に教室に潜り込む。この講義は、前期の評価方法は試験だったので8:45には席について真面目に聴いていたが(それでもかなり試験の難度は高かったのだけれど)、後期はレポートである。半ば文筆業を生業(但し、レゾン・デートルとして)としているような私であるから、3000字程度の文章を「捏造」することは訳ないという自負がある。勿論、「捏造」を達成するためには「情報(=読書)の蓄積」が重要かつ必要なので、同じことをしたいなら、独学を励行して頂きたい。


「お前の言っていることは、サボりがちな怠慢学生の言い訳だろ?」と批判される向きもあろう。しかしこう言う「良心的な」教員も中にはいるのである。「僕の講義なんかに来ないで、図書館に篭って勉強して下さい」。こういった良心的な教員は、概して若手の非常勤講師が多いと思われる。彼らは人文科学系の教員であっても当然出席は取らないし、取ってもあくまでポーズとしてだけだったりする。だが私なんかは、こういった良心的に教員の授業こそサボることなく、しかも真面目に聴いているから逆転している。何故なら内容も良心的に面白いからなのだ。


事務所に履修届けを出さずに聴講することを学生用語で「モグる」と言う。つまり正規の履修ではないので、当然卒業単位に加算されることはない。私は今年度、非常勤講師として教えている、或る文芸評論家の講義にモグっている。彼の講義は6限(18:00〜19:30)なので、一般的な学生なら敬遠する時間帯だろう。しかし夜間学部他の正規の受講生を含めて、毎回大概100人程度を収容する教室は満席になる。毎回最前列付近に座って、彼の話に度々相槌を打つ学生はフォロワーだろう。文芸界の裏事情までリアルタイムで聴ける彼の講義は非常に魅力的である(昨年は「慣例なら綿矢りさ芥川賞を獲らんでしょう」と言っていた)。


また、大学生の重要な勉強方法の1つに、「議論」があると思う。大学の授業においては「講義」に対して「演習」(ゼミ)がその役割を担っている。……のだが、少なくとも私の履修している独文の演習は、その役目を果たしているとは言い難い。具体的には枚挙に暇【いとま】がないので例示しない(言い出すと、私の主観的な苦言まで飛び出さねばならない)が、流石に約30人のクラスで活発な議論を期待しても、難しいのではないか。テレビ朝日の公開討論番組『朝まで生テレビ』だって、パネラーは10人程度である。私が昨年選択した演習は、運良く10人程度のクラスで、年間を通して充実した(とても疲れる)議論ができた。


従って私の求める議論は、所属サークルでの活動が果たしてくれた。ドイツに関するあらゆる物事を研究するサークル(以下「ドイツ研」)と、学内報道サークル(以下「新聞サ」)の2つに私は属しているが、それらはそもそもは政治系サークルのように議論を主活動とはしていない。しかし巡り合わせとは時に恐ろしい程素晴らしいもので、語り合える学生がそこにはいたのである。


ドイツ研には今年2年次から参加しているのだが、不思議な程ドイツにあまり関心がない学生が多く、独文所属の私も驚いてしまったのだが、私こそドイツにあまり関心がないので、逆にその空気が肌にあったのかもしれない。ドイツ研の代表は政治学科の3年生なのだが、文学部畑の私が投げかける議論に対して、自身の専攻である政治思想史の知識に立脚した返答を打ち返すのである。そういった自分にない考えや知識を持ち寄った議論というのは、大層勉強になるし、やっていて楽しいと実感する。また1年次から参加している文学部の2年生がいるのだが、根っからの文学青年である。附属高校出身の彼は附属高校出身とは思えない程エキセントリック(誉め言葉として)なのだが、それは彼が、私には学問に対しては常に真摯であると思われるからなのだ。大概の附属上がりはどこの大学でも、要領よく単位を取っていって、学問なんぞそっちのけであるという印象が強い。私はこの2人には特に敬意を払い、この2人がいたからこそ、ドイツ研に定着したところが大きい。


私とて一応は新歓(新入生歓迎)期に他のサークルを回りもした。しかし何故か居心地が良くなかった。それらはいずれも文芸系サークルであった。所属会員と話をしてみたものの、本の話はできるけれども、それ以外は酒と女(男)の話ししかできない人達ばかりだったのだ。そういった人達と話をしても、私の望む議論は出来なかっただろうと気付いたのは最近だが、当時の私はそれを本能的に直感していたのだと思う。酷かったのは今年行った文芸系サークルで、部室で飲食がてら歓談していたところ、主催の代表者と副代表者を含む数人がこっそり抜け出し、暫くしても戻ってこない。私が小用で席を立ったところ、彼らは喫煙所で(何故か)或る部員の恋愛相談で盛り上がっていたのである。これには私は呆れ返った。別に恋愛談義を否定する気はないが、状況を考えてほしい。主催者に放っておかれた部室内は、新歓に訪れた新人達ばかりになっており、所在なさげにどうしようもなかったのである。私が酒の話も女の話もできない「普通じゃない学生」だからこそ、そういった「普通の学生」とは合わないのであろうか。


後者の新聞サには、私は1年次から参加している。このサークルの先輩達から受けた恩恵は計り知れないが、それ故に長くなるので、別の機会を設けて語りたい。兎に角エキセントリック(勿論、誉め言葉として)な人たちばかりであることは予め記しておきたい。


取り留めもなく、思いつくままに自らの学生生活を記してみたが、要約してみて書き漏らしたことは取り敢えずない。或る友人曰く、私は「80年代の元気な学生みたいだ」とのことだが、私本人にはこの比喩が正当なのか否か、よくわからない。但し「普通の学生」ばかり多いと思われる私の学部において、私自身は馴染めないと実感しているので、多分私は多少なりともエキセントリック(ここでは、誉め言葉は含意しない)な部分を有した学生であるとは思う。別にそれを自慢するともまた卑下するとも思わない。また真似られようなどもっての外である。以前は馴染めないことに焦りもしたが、今ではもう諦めた。というより「普通」に無理に合わせても、かなり疲れることを体得的に知っていたからである。私は私の学部に帰属意識は抱いていない。或いは大学にすら抱いていないとも言える。


『日々徒然』はこのような、いち「普通じゃない」普通の学生が著している。……私が私自身を「普通」か「非普通」のどちらかにカテゴライズすることはできない。試みても不毛なだけである。どなたかなさりたければ、私は関知しないので、随意試してほしい。ともあれ、本稿がこれから大学生になるであろう人々にどんな影響を与えられるかはわからない(もしあるならば、良いものを願う)が、以後続く連載がより良く読まれるのではないかとは思うし、そう願いたい。(5069字)

2004年10月30日付『大学受験生応援コラム』休載についてのお詫び

 2004年10月30日付の『大学受験生応援コラム』を休載してしまったことについて、深くお詫び申し上げます。受験生とともに、入試(具体的にはセンター試験)までの時間を追いかけ、共有することで、私自身も彼らと何らかの感情を共有したいという意図で始められた週刊連載でした。そのさなかで一度地に膝をついてしまったことは、自らの「中だるみ」を反省せざるにはいられません。

 自らの多忙を言い訳にすることは出来ますが、たとえそうだとしても、迫り来る時間的制約をも共有することも含意されていることを考えるならば、やはり今回の休載は受験生諸氏に対して不誠実であったと言えます。

 ただ、お約束することは「休載しないように心がける」に留めたいと思います。私は本コラムを蔑ろにする訳ではありませんが、別所にも執筆すべき原稿を抱えているなど、誰かと共同で仕事をする場合には、私独自の仕事を犠牲にしなければならない事情も当然として存在するからです。私の事情もご理解頂ければ幸いです。

 今後とも本コラムにお付き合い頂けますようお願い致します。

 2004年11月7日 筆者拝

To be continued to 20041113......