(大学受験生を応援⑩)本を読まない大学生、議論ができない大学生

前回のコラムはこちら


佐賀大学附属図書館は、「高校生が選ぶ『大学に入ったら 読みたい本100選』」という企画を実施しました。その企画とは高校生に大学に入学したら読みたいと思う本をアンケートしたものです。その結果が公表されました(結果はこちら)。


私個人としては、あまり好ましい結果だとは思っていません。「大学生として」読む本としては、簡単な本ばかりが多いと思うのです。『ハリー・ポッター』を私は全く読んだことはないので内容は詳しく知りません。ですがあれだけのミリオン・セラーになっているだけあってきっと面白いのでしょうし、大学生が読んでも構わないとは思うのですが、それは別に「大学生として」読む本として挙げるまでもないと思うのです。端的に言うと、『ハリー・ポッター』くらい高校生のうちに読んでしまっておく本だと思うのです。もちろん、英文学を専攻したいと高校生が同作を研究の対象としているとは思うのですが、それはそう思った時点ですでに読んでしまっているはずですので、今更読みたい本に挙げることはないでしょう。29位に同作の原書(英語版)が上がっていますが、それは将来「英文学者として」研究したい高校生が挙げたのかもしれません。


ですが、ここで推測できるのは、恐らく回答者である高校生たちの大多数は「大学生という身分において」読みたい本を答えたのではなく「大学生という時間において」読みたい本を挙げたのではないか、ということです。


私の推測は、多分間違っていないと思います。『ハリー・ポッター』のJ.K.ローリングしかり、片山恭一綿矢りさ*1金原ひとみ*2、Yoshiなど、最近ミリオン・ヒットを飛ばしている作家が上位に散見されることに表れています。「今はやっているみたいだし、大学生になったらきっと自由な時間もできるだろうから、読んでみようかな」という道理でしょう。


でも「大学生という身分において」読むのであれば、これらのベストセラーは挙げるまでもないのです。なぜならこれらの本を読む人間が、大学生である必然性は一切ないからです。大学生でなければ読まない本がベストセラーになりうるはずはないのです。その点で、新書という大学1年生以上が読むべきとして通念されている形で出版された『バカの壁』(新潮新書)が3位に上ったのはしかるべき結果だと思いますが、さりとて同書も186万部も売れている(私も売上に貢献しました)ので、やはり「大学生という身分において」選択される意図からは、外れるでしょう。


逆に30位『五体不満足』(98年10月配本)という6年前のベストセラーを、今更挙げるあたり、同書を挙げた高校生がいかに本を読んでいないか、それゆえに他の本のタイトルすら知らないかということも窺えます。420万部も売れていれば、『窓際のトットちゃん』同様、タイトルと概要くらいは誰だって知っています。多分こういった高校生は、大学生になっても読書なんてしないでしょう。


また35位の時雨沢恵一キノの旅』(電撃文庫)、61位の村山由佳おいしいコーヒーのいれ方』(集英社JUMP jBOOKS)といったライトノヴェル*3も、やはりとりたてて「大学生だから」読むべき本ではないと思います。22位に奈須きのこ空の境界』(竹箒/講談社ノベルス*4があることこそ本当に驚きで(大学図書館に入庫されてしまうことがさらに驚きで)、投票者である高校生をどのように選出したのかは明記されていないので、同作は評判が高いのかそれとも佐賀大志願者はオタクが多いのかわかりませんが、「大学生だから」読むと臆面もなく挙げるのはなかなかの度胸だと思います。


これは高校生の問題ではなく、時間的連続性を有する大学生の問題とは全くの不可分です。本を読まない高校生が、大学に入学したとたんに読書家へ変貌するわけがありません。本を読まない高校生は、大学生になっても本を読まないままです。そしてまた、佐賀大学だけの問題でもないことは言うまでもありません。


東北大生の友人が言っていました。「去年の授業中に先生が『ドストエフスキーって誰ですか?』って訊いたら、みんな知らなかった」と。これを聞いたときはちょっと驚きました。友人本人も驚いたそうです。東北大って確か高偏差値の難関校だったはずですが、同時に常識なしの集まりだったのかと。大学生ならば、まして東北大生ならばどの学部生であれ、ロシア随一の文豪くらい常識として知っておいてほしいというのは、私の幻想でしょうか。「東北大生(合格平均偏差値64)すらかつ本を読まない。況や佐賀大生(同53)をや」*5は冗談ではありません。東北大生の全員が常識なしだとは思いません(少なくとも私の友人は常識人だと信じたい)が、常識なしがいることも明らかです。


読書をしない学生は、議論もできないと思います。知識の蓄積がない者が議論に際して何を論ずることができるでしょうか。


前回のコラムで私は「非主体的にして得た情報が、自らの中で咀嚼され、消化された『知識』になりえるはずもありません。現前する情報に対して、時に批判的に、時に疑義的に、時に感動的に吸収し、自分なりに『知識』として塑成することが、『主体的に学ぶ』ことだと思います」と記しました。議論ができない者が「批判的に『知識』を塑成する」ことができるはずもなく、非主体的に「情報を垂れ流されてただ貪り食うだけ」でしょう。


札幌大学教授・鷲田小彌太氏は、「(前略)本を読むことは、直接に体験できないことを、疑似体験することでもあるのです」(『「知」の勉強術』〈KKベストセラーズ*6より引用)と言います。つまり私が本コラムの連載において、しばしば鷲田氏の言葉を引用するのも、同じことです。


私が友人からしばしば「昔の学生みたいだ」と評されるのは、多分議論好きの学生だからだと思います。そんな私は話、即ち議論ができない(=「『日本語』が通じない」)学生は嫌いです。「勉強」していない連中とは付き合う意味がない。そういう連中は、大概本を読まない学生が多いように思います。たかだか20年しか生きていない学生が深い議論をしようとする時に、自己の経験だけで語れることなんて高が知れているのです。だから議論の時には「●●という学者は言っているんだが……」という形で持論の援護射撃をするのです。


そしてまた、読書からであれ、議論からであれ、他人の経験や意見、批判などを取り込まない人が、自分の意見をもっている訳がないでしょう。他人に批判されるということは、つまり他人を批判していなければ、なされないのですから。

 〔昔は〕本を読むことが一種のファッションであったり、娯楽の種類も少ないし、情報を得る手段も少なかったので、本を読む必要性が今よりも高かったということです。

 今の学生は、単位を取る、試験を受けるなどの必要性がなければ、本を読もうとはしません。読書は知的ファッションであることをとっくにやめていますし、本以外に、さまざまな娯楽や情報を享受できる手段があるからです。

(鷲田小彌太『「知」の勉強術』〈KKベストセラーズ〉より引用。引用文中の〔 〕内は引用者の補足)

私は未だに読書が知的ファッションであると信じています。この辺りが一般的な学生との齟齬を生んでいるかもしれません。ですが大学という「『知』の探求の場」において(実はそれも古風な大学像なのでしょうが)、「知的武装」を試みないのは本末転倒だと思うのです。


本コラムは主として大学受験生を対象に書かれていますので、受験生諸氏には本稿の内容は耳障りだったかと存じます。しかし大学に入学前であればこそ、大学の現状(惨状と言ってもいい)を知り得ておくべきだと思います。新聞の社説のような歯触りのよい文章では、毒にも薬にもならないのです。大学でバカになるために今必死で受験勉強しているわけではないでしょう。


さて、佐賀大学附属図書館の話に戻りますが、同図書館はアンケートの上位100冊を蔵書するそうです。佐賀県は同大学を含めて大学は5校、そのうち4年制大学は2校しかなく、都道府県別でも最も少ない数ではないでしょうか。もしかするとそのアンケートは受験の目玉作りとして行われたのかもしれません。大学も国公私入り乱れて生き残りをかけるこのご時世、「受験生に佐賀に残ってほしい、佐賀に来てほしい」という切実な意図が透けてきます。


ですがその意図はあまりにもお手軽だと断ぜざるを得ません。重要な大学図書館の予算を、誰もが本屋で簡単に手にすることができる(それは価格が安いという意味でも)書籍ばかりに費やしても意味がないと思うのです。少なくともそれは、一般の図書館の役割です。大学図書館は、一般書店にあまり流通せず、部数も少ない研究書籍などを(半ばお情けで)購入し、入庫すべきではないでしょうか。新書や文庫は金がない学生でも買えるのです。願わくば、目玉作りばかりに気を予算も取られて、肝心の研究の場を提供することをおろそかにしないでほしいものです。(4717字)


To be continued to 20041204......

*1:02年早稲田大学教育学部国語国文専修に広末涼子(昨年03年に5年目で中退)と同じく自己推薦入試で入学。

*2:父親は、法政大学社会学部教授、翻訳家・金原瑞人氏。

*3:村山は直木賞作家ですが、同書配本の時点での位置づけは、後年登場するライトノヴェルのそれと同じです。

*4:同作は同人版と商業版があり、前者は同人版の発行元。筆者はもちろん両方所有しています。

*5:偏差値は、予備校の代々木ゼミナールが公表しているデータを元に筆者が算出。

*6:isbn:4584103267