(大学受験生を応援⑥)何故大学に行くか

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こん日の日本で見られる義務教育の実施や高等教育の推進は「教育は人を良くする」という考えに基づいている。しかし思想家の中にはこう言う人達もいる。即ちフランスのモンテーニュは「多識は必ずしも魂を豊かにしない」と言う。またイギリスのホワイトヘッド(1861〜1947)は「あまりに多くのことを教えるなかれ。しかし、教えるべきことは徹底的に教えるべし」とも言う。


私はこん日の大学生における、いわゆる「学力低下」を、規制緩和による大学乱立と少子化により、より一層大学に入学しやすくなったことに起因すると考える。つまり受験勉強しなくても、取り敢えず「大学」と名のつくところには文字通り目をつぶってでも入学することができるのである。


しかし2つの原因のうち、後者の少子化は致し方ないと思うしかない。18歳人口は1992年(74年度生の子ども達)の205万人以降に減少の一途をたどっており、2009年(1991年度生の子ども達)は120万人になると予想されている。これは全国に存在する大学の総定員数と一致する。即ち「大学全入時代」と呼ばれる年である。1992年と2009年を比較すると実に41.5%減である。定員割れを起こしている大学は既に地方では出現してきている。例えば山形県の酒田短大や広島県の立志舘大は学生不足で休校・廃校してしまった。しかし女性の社会進出や、またその「働く母親達」を受容する社会が育児補助に消極的な現在では、出生数を上げようという方が無理な話だ。社会の変容を待たぬ限り難しい問題ではある。


では大学乱立はどうか。'90年以降、臨時教育審議会答申により「教育改革」が進められ、新規の大学設立ほか、短期大学や専門学校の4(2)年制大学化するケースが増えてきている。私の地元では、郡山女子短大が4年制大学を併設して「郡山女子大学」と校名変更したことが記憶に新しい。また新学部や新学科設置で学生を多く呼び込む手法も存在している。これは、失敗してしまったが、東北文化学園大学郡山市に薬学部を設置しようとしたことに見られる(余談だが、私は設置を切望していた)。


ここで、冒頭に紹介した「教育は人を良くする」という教育理念を思い出してほしい。これには続きがある。「そして、社会も良くなる」。これは'70年代までの高度経済成長が証明してしまったことにより、わが国ではこの思想が一層加熱してしまった。即ち「社会発展のために教育をせよ」という意味である。


'62年の文部省『教育白書』にはこう副題が付けられている。その副題とは「日本の成長と教育」である。この文言を、教育を司る省庁が発言したことにも末恐ろしいが、その中身はもっと恐ろしい。「教育投資論」、つまり経済発展のために教育投資をするという発想だ。言い換えれば、一人ひとりの人間的成長が蔑ろにされていると言える。そして'63年、経済審議会が答申として「経済発展における人的能力開発の課題と対策」を言及する。


ここまで見てくればわかるように、教育の役割は「人を良くすること」よりも「社会を良くすること」に比重が置かれていたのである。しかし近年は教育者達もこの歪みを反省し方向転換を始めているので、批判を差し向けることはしない。


しかしとはいえ、実際には依然「社会のため」として作り出された大学が存在し、また「就職のため」と言って大学進学する18歳が大半を占めるのである。そこには「知への愛」や「学究心」といった純粋に学問を志す理念が存在しないと思うのは私だけだろうか。要は大学生は「勉強」しなくなったのである。「勉強」せずに「遊び呆ける」のである。それは昨年の起こった、早稲田大学のサークル「スーパーフリー」(スーフリ)が起こした集団レイプ事件が悪しき結果ではないだろうか。「大学に入学すること」が最終目的であった彼らは、入学した途端に今まで受験勉強に向けていた熱意を今度はどこに向けるべきかわからなくなってしまったのだ。いや、「そこ」にしか向けられなかったのである。何故なら彼らには入学後の展望が無かったから、と私は邪推するが、同じ大学生(であったのは、退学処分にされた彼らにとっては過去の話だが)としては大きく逸脱して正解を外すこともないだろう。


私は多くの人々が大学進学を志すことを悪いことだとは思わない。寧ろ素晴らしいことであると思う。しかし理由如何である。大学生の私から見て、「何をするために大学に入学するのか?」という信念を持たない大学生は存外多いと思われる。無論入った直後は右も左もわからない状態であろう。しかしその状態が3年生や4年生になっても続くのは愚かである。しかし、確実に多く存在する。


それは「自分が大学生である」という意識に欠けるからではないか。わかり易く言い換えるならば「エリート意識」の欠如としても過言ではない。ただ、私は母校批判においてエリート意識を持つことは悪だというような趣旨のことを書いたが、明らかに文脈が異なるので混同されないよう留意されたい。'70年代に勃発した学生運動の起源は'68年に日大生が決起した、いわゆる「日大闘争」である。ここで彼らが後年語る決起の理由は「自分達は大学生なのに就職できない。自分達はエリートではなかったのか?」である。エリートである大学生を見捨てる社会に対する大学生の反発である。


大学・短大の進学率は、'60年が10.3%、'65年が17.0%、'70年が23.6%、'75年が37.8%である。'68年頃だと10人中1人か2人しか大学生にならなかったのだから、大学生が特殊な人種であると見なされた末期の頃かもしれない。以降泥沼化する学生運動の様相にはこれ以上言及しないが、それでもこの「自分達は大学生である」という誇りと自信に満ちた初期の理念には、私は感嘆するし、私を含めた今の大学生は見習うべきだと痛感する。今の大学生は押し並べて幼稚である。


なぜ大学生が幼稚化したか理由を考えるならば、即ち大学生が普遍化してしまったからである。大学の乱立により大学生が量産され、大学生がエリートではなくなったからだ。従って「自分が大学生である」という特別な意識は生まれるべくもない。これは現在ほぼ100%に近い水準を保つ高校進学率を考えてもわかることだ。わずか高校進学率が5割程度だった'54年頃、高校生は「大人」であったという印象を持つ年配者は多いはずである。今の高校生は、間違っても大人とは言えまい。それは半ば義務教育化した高校教育下にある人は子供であると、社会も親も、また高校生自信も無意識に既定してしまったからだ。


札幌大学教授・鷲田小彌太氏は「現代はモラトリアムの時代である」として「モラトリアム時代では大学生になるべきだ」と説く。しかしそれは社会の変容で、若者に大学進学する余裕があるからこそ、大学で今何をなすべきか、これから何をなすべきか、自分とは何者かを考えよということなのである。


私の在学する大学の前学長(正式な肩書きではないが、便宜上こう記す)は在任時「学生は消費者である」と発言した。即ち私達学生は、教員の講義を享受するだけの存在だと言いたいのだろうか。何も考えずに授業に出席して、4年か5年ほどしたら入れ代り立ち代りしていけばいいというのだろうか。


それは屈辱的な罵倒語だが、今の大学生の様態を如実に言い表しているとも認めざるを得ない。授業に出席しても、講義を聴かないならまだしも教場の後方で声高に私語をし、演習(ゼミ)では他の学生の発表時にあからさまに居眠りをする。そこには鷲田氏が提言するような理想の大学生は微塵も存在しない。彼らはしばしば「就職のために大学に来た」と嘯【うそぶ】くが、では就職の為に何を学ぶかというヴィジョンがない。このように幼稚化し、動物化した学生が集まる大学はもはや「就職予備校」と罵倒されることすら不適当で、寧ろそれ以下の幼稚園や動物園である。


今年の6月に早稲田大学において学生が主催したティーチイン(学内討論会)に講師として参加した映画監督で元日本赤軍幹部の足立正生氏は、同大学の学内報道サークル紙の取材に対してこう語っている。「合コンで盛り上がるのもよいが、たまには飲まずに語り合ってみるのもよいだろう」(『早稲田ジャーナル』第3号)。前述の学生運動に端を発するセクト政治団体)に関わった経験のある氏の言葉は、まるでスーフリやそれに類似する企画を開催する、「非大学生化した」大学生に対するアンチテーゼのように私には聞こえる。


まだ大学に入学していない受験生諸氏は、今すぐ自問自答すべきだ。必要なのは入学以後の明確なヴィジョンではない。入学したら明確なヴィジョンを手に入れようとする意志の力である。そして、そういった強い意志を既に持っている人は、受験勉強に立ち向かう意志も同様に強固であると、私は信じて疑うことはない。(3656字)


(追記①)11月2日(火)スーパーフリー元代表和田真一郎(30)に懲役14年(求刑は15年)の実刑判決が下ったようだ。ある知人は「強姦で求刑15年は重すぎる」と言っていたが、私には同情の余地は一切ない。03年5月の美人局【つつもたせ】事件に端を発する一連の現役早大生(当時)による性犯罪は、同大学の信用を失墜させる結果となった。


……と言いたいところだが、今年04年4月に逮捕された植草一秀・同大大学院元教授といい、早稲田実業学校初等部の入学生に対して寄付金要求の「恐喝」をした嫌疑がある、当時の学校法人理事長だった奥島孝康・同大前総長、法学部(!)教授といい、学生も学生なら、教員も教員(特に前者は同じ性犯罪)だという早稲田大学であるが、未だに受験生にもそれ以外にも、どうして人気があるのか理解できない。


それはさておき、和田・元代表に対して別の知人は「宦官の刑にされてしまえ」と冗談めかして言っていたが、これも私は一理あると思う。合コンをするため(だけ)に大学に入ってくる学生は、正直無用の長物である(和田は政経学部を8年在籍して除籍された後、翌年二文学部に再入学しているのだから、少なくとも後者の時は明らかに合コン目的であろう)。「生きる資格もない」。全くその通りだと思う。

スーパーフリー元代表の和田被告に懲役14年*1

 早大生らのイベントサークル「スーパーフリー」(解散)による集団婦女暴行事件で、3件の準婦女暴行罪に問われた元代表和田真一郎被告(30)に対し、東京地裁は2日、懲役14年(求刑・懲役15年)を言い渡した。中谷雄二郎裁判長は「高度に組織化された婦女暴行集団で主導的役割を果たしており、被害者や家族に与えた精神的苦痛は重大」と厳しく批判した。事件で起訴された14人全員が1審で実刑判決を受けたことになり、中心人物の和田被告が最も重い刑となった。

 判決によると、和田被告らは01年12月〜03年5月に3回にわたり、それぞれ女子大生を泥酔させたうえ東京都豊島区の自宅兼サークル事務所や東京・六本木のビル内などで、集団で暴行した。

 事件では、和田被告以外の13人に1審で懲役2年4月〜10年の実刑が言い渡され、元副代表ら幹部2人が控訴中で、ほかの11人は有罪が確定している。【井崎憲】

◆被害女性の苦痛は今なお

 「被害女性の人格や心情を一顧だにすることなく、専ら自らの欲望のはけ口として本件犯行に及び、規範意識や倫理観の欠如は明白。厳罰をもって臨むべきだ」。中谷裁判長が判決を読み上げる間、和田被告は前を見据えたまま姿勢を崩さなかった。公判の最後、紺のスーツに身を包んだ和田被告は、体を折り曲げて丸刈りにした頭を深々と下げたが、被害女性の苦痛は今なお続いている。

 和田被告は公判で「生きる資格もない」と反省の言葉を度々口にする一方、「代表だったからといって暴行を首謀したとは言えない」などと弁解を続けてきた。

 判決は、被害者の実情を「食べては吐く行為を繰り返している」「深刻な精神的ストレスで一時的に呼吸が困難になっている」「被害を知った時に受ける苦しみ、悲しみを考え、最も深刻な悩みを両親にも打ち明けられない葛藤(かっとう)」などと例示し、被害の深刻さを浮き彫りにした。被害者の家族についても「具体的に手助けを何もしてやれない家族の心労や心痛は察するに余りある」と、大きな衝撃と苦痛を与えていると指摘した。

 証人出廷した和田被告の父親は「(息子は)バカだった」と嘆き、被害者への慰謝料ねん出のため不動産の売却を進めようとしているという。

 事件を機に、国会議員から集団強姦(ごうかん)罪の新設を訴える声が浮上。法務省は同罪新設や強姦罪の法定刑を「2年以上の有期懲役」から「3年以上」に引き上げる刑法改正案をまとめて今国会に提出した。【井崎憲、篠原成行】

To be continued to 20041106......

04年11月3日 追記①

*1:http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20041103k0000m040076000c.htmlより引用(09年2月12日現在、確認不可)。