辞書を読んだ男の本

そして、僕はOEDを読んだ

そして、僕はOEDを読んだ

OEDとは、Oxford English Dictionary(オックスフォード英語辞典)、本体20巻、補遺巻3巻から成る英語最大の辞典である。原題はReading the OED: one man, one year, 21,730 pagesというから、直訳すれば「OEDを読んだ。一人の男が、一年がかりで、21730ページを」といった感じであろう。邦題の『そして、僕はOEDを読んだ』は、その「そして」の意味がよくわからないが、「結局」「案の定」「やむにやまれず」くらいの含意があるように思われる。

本書は、そのOEDを「引いた」のではなく、書物として「読破」した男の物語である。常人、凡人には理解しがたい所業である。本当は「体験談とエッセイ」の本であると紹介したいところだが、どうも完全なるノン・フィクションではないように思われるのだ――勿論それは、いささかも本書の魅力を削ぐことに貢献してはいない。

OEDを読破したのは、本書の語り手でもある著者のアモン・シェイ(Ammon Shea)ということになっているが、わたしは彼が架空の人物で、著者は本当は英語学に詳しい専業作家か辞書の編集者、あるいは物語を書くための卓越した文才を持った研究者か何かではないかといぶかしんでいた。というのも、本書において描き出される彼には、生活感が全くないからである。「この一〇年間……ニューヨークで家具運送の仕事をしていた」(p.4)というが、OEDを読んでいる間の生活に、何かしらの正業をこなしていたという記載はない。ほとんど毎日、しかも一日中辞書にかじりついているという生活が、延々と繰り返し述べられるばかりだ。巻末のプロフィールには生年も掲げられてはおらず、ますます著者のミステリアスさが増すばかりである。メリアム・ウェブスター社で辞書編集に携わっていた経験があるというガールフレンドのメリックス(p.4)や辞書の売買で生計を立てていたという友人のマデリン(p.56)あたりが実は本当の著者で、アモン・シェイという架空の人物に仮託して、辞書を読破したという途方もない行為と同時に、OEDという辞書の何たるかを描きたかったのではなかろうか――とわたしは思いながら読み進めていった。

著者紹介欄によれば、シェイにはDepraved English(『堕落した英語』未邦訳、1999年)やInsulting English(『侮辱する英語』未邦訳、2001年)といった著作があるというので、本書の読了後、インターネットで彼についてどの程度の情報が出てくるか検索してみたら、あっさりと>彼のウェブサイトが見つかった。本人と思しき男性の写真もいくつも掲載されている。そのうちの一つは、小さな子どもを抱えながら電話帳を読む彼の姿であり、それを見て、OED挑戦中にその家へと転がり込んだ(p.144)ガールフレンドとの間の子どもかしらん、などと思ったりもした。

英語にかんする本をいくつか物している著者は、先に述べたように、英語学に詳しい作家と読んでもよいと思う。ラテン語ギリシア語にも通じてるようにも見え、その筆致からは、少なからぬ教養教育を受けてきたことを想像させる。家具運送という単なる肉体労働従事者であるようには思えない。ところが、高校に在学していたことは書いてあるが(p.137)、大学で勉強し学位を取ったという話は出てこない。何とも謎めいた人物である。

彼の生年にかんして言えば、「僕は一九七二年の段階で、つまり、まだおむつが取れていない段階で〔……〕」(p.246)という記述があり、それに従えば、彼は1971〜72年頃と生まれということになり、現在(2011年)40歳前後ということになるだろう。欧米人の年齢をその外見から言い当てるのは、日本人のわたしにはなかなか難しいが、それでもウェブサイトに掲載されている写真の男性がそのくらいの年齢に見えないこともない。歳の割には英単語のその語源にかんする卓抜した知識を持っているが、彼自身の言によれば(pp.137-139)、高校生のときから使用頻度の高くない単語にかんする知識と興味とを抱いていたようだ。

本書は、著者がOEDから精選した面白い単語、今は使われなくなった単語が、AからZまでその頭文字ごとに分けていくつも掲載されている(以下想定される発音をカタカナで示すが、それはわたしによる音写であり、シェイまたはOEDによるものではない)。

例えば、Admurmuration(アドマームレイション)は、「テニスの試合でポイントが入った時に見られるような、あの低いうなり声」を出すことを意味する名詞だという(p.20)。ところが著者によれば、OEDには、この単語は一度も使われたことがなく、昔の辞書に記載されたことがあるだけと記されているという。奇妙な話である。通例、辞書はすでに使われている言葉を収録する使命を担っていると認識されているはずだが、そうではなく、(古の)辞書が作り出したかもしれない単語に(現代の)辞書が承認を与えるという、あたかも辞書という権威者による言葉の捏造のような事態が起きているのかもしれない。こうした事例は、辞書とは不変の言葉の番人などではなく、恣意的な人間たちの編纂物であることを強く再認識させる。

「世界は主体的に自ら破滅にむかっていくもの」だという考えというDeteriorism(ディタリオリズム)には(P.64)、OEDが今後改訂されたときには、類語としてAdornism(アドルニズム)が与えられるかもしれない。もちろんそれはわたしの造語にすぎないが、この単語の定義を初めて見たとき、わたしはドイツの哲学者アドルノ(Theodor Adorno)の思想、というかこの哲学者を研究しているわたしの指導教員の口癖「人間は破滅に向かって進歩していっている」という言辞を弄した言い回しを即座に思い出した。わたしはこの単語を、アドルノとわたしの指導教員に捧げたい――拒否されても、押し付けてやる。

Deteriorismの類語としてPejorist(ペジョリスト)「世界が悪い方向へ向かっていっていると考える人」も挙げられている(p.195)。アドルノもしくはわたしの指導教員のことだ。そうでなければ、中二病的な考えにどっぷり浸かった子どものことであろう――一応言っておくが、「アドルノ、イコール中二病」と見なすつもりはないが、アドルノを含めた60〜70年代に流行った左派的な思想の研究者のなかには、中二病患者が結構多いのとは思っている。

著者はZyxt(ズィクストまたはズィークスト)を大切に覚えておきたい単語として挙げている(p.288)。というのも、それがOEDで定義されている最後の単語だからだという。これはイギリスのケント方言で、「見る」(see、スィー)を意味する動詞の二人称単数直説法現在形である。つまり標準的な英語で言えば、"you see"(君は見る)のseeである。

この語とその定義を見たとき、わたしは即座に標準ドイツ語で「見る」を意味するsehen(ゼーエン)の二人称単数直説法現在形であるsiehst(ズィースト)を思いついた。ケント地方は、イギリスはイングランドの南東にあり、イギリスにとってヨーロッパ大陸に最も近い地域の一部である。同地は英仏海峡トンネルのイギリス側出入口でもある。

標準ドイツ語とケント方言における、「見る」という単語の二人称単数直説法現在形が似ているということは、恐らく両者が共通の祖語を持っていることの証拠の一つとなるであろう。方言という座に追いやられているとはいえ、英語が、ドイツ語やオランダ語との比較的近い共通の祖語をもつゲルマン語の遺産を未だに保持しているということは興味深い。他方この単語が、逆に方言となり、近年改訂が進められているオンライン版のOEDでは見出し語としての地位を奪われ、seeの様々な語形変化のうちの一つという扱いに甘んじている(p.287)ということは、英語が現在でもますますゲルマン語族から脱しようと賢明の努力をしているようにすら見えてしまう。一応ドイツ語に思い入れがある人間としては、物悲しくもある。

わたしはこの本を地元の公立図書館から借りて読んだ。閉館直前に、言語学の棚の前を通りがかったら、この本が「図書館員のオススメ」だったのか、それとも単に「新入荷」に過ぎなかったのか、それはともかく、棚の上に表紙を正面にして立てかけられていた。閉館が迫っており、内容を吟味する時間はなかったが、ほとんどタイトルだけに心を鷲掴みにされて、この本を借り出した。

わたしの直感は正しかった。久しぶりに、続きが気になりつい先へ先へと読み進めてしまう本に出くわした。訳者の田村幸誠滋賀大学の准教授で、英語学や言語学の専門家だというが、その割には訳文がこなれていて読みやすい。内容が内容なだけに誰にでもお勧めできるというわけではないが、非常に知的に刺激される本であった。