内閣不信任案にたいして

以下の投稿は、わたしがある人に宛てた応答に、大幅に加筆したものである。

−−−−−

6月1日に、自民、公明、たちあがれ日本の3党が、衆院に内閣不信任案を提出しました。
このタイミングで不信任案を出してくる自公たち日にたいしても不可解、というかもはや噴飯ものですが、もっと不可解なのは、管見の及ぶ限り、そうした野党第一党派を“明確に”批判するマスコミがいないことです。

菅政権が震災と原発事故の処理に関してうまく機能していないことは、恐らく大概の人が感じていることでしょうが、それでも、このタイミングで「内閣を替え ろ」と主張するのは、どう考えても時宜を違えているとしか思えません。ということは、このタイミングで内閣を替えてもいいと思っているマスコミ人は結構多いということなのでしょうか。災害復興が遅々として進まぬのは被災地を実際に見ていないからだと、政治家はよくテレビのコメンテーターたちから批判されていますが、取材で被災地各地を飛び回っているはずのマスコミ人たちも、被災地の惨状を目の当たりにしていないことになります。全く奇妙なことです。

(上記の見解は、あくまでも「管見に及ぶ限り」で、単にわたしが不勉強なだけであろう。6月2日4:30現在ネット上で閲覧できる新聞各紙の社説を見ると、朝日毎日、宮城の河北新報[1日付]は内閣不信任案の提出にたいして批判的、読売は賛意を示している。産経はまあ確認しなくても大体わかるわな)

ついでに言えば、日本中に原発を作りまくったのは、当時の自民党(を中心とする)政権でした(もっとも、渡部恒三はじめ、福島県で選出された元自民党議員の民主党議員もまだいますが)。これにたいする反省も総括もなしに、自民党はよくも「原発事故の対応が悪い」と言えたものです。思えば、09年8月の衆院選で敗北したときも、自民党は明確な総括をしませんでした。これから政権を担う可能性が極めて大きい野党第一党の振る舞いとして、適当だとはとても思えません。それこそ場当たり的な態度なのではないでしょうか。

もちろん、野党の出す不信任案に乗っかる与党議員にたいしては、もはやかける言葉もありません。どいつもこいつも噴飯ものです。

毎日新聞によれば、小沢氏は「国民が支持してくれた民主党のあり方に戻さなくてはいけない。十分、我々の意思が国会において通るものと思っている」と述べたそうです。これは全くおかしい。というか、論理が逆転している。

さる衆院選民主党が支持されたとき、支持されなかったのは自民党であり、公明党であり、つまり当時の与党でした。小沢氏は、「国民が支持してくれた民主党のあり方」に戻すために、あのとき支持されなかった政党派が提出する内閣不信任案に賛成するというわけなのです。かつて支持された者(民主党)が失った支持を取り戻すために、かつて支持されなかった者(自公)がその協力をするというのでしょうか。内閣不信任案の提出によって支持を取り戻そうと試みるのは自公であり、どう考えても民主党ではありません。つまり、与党議員が不信任案に賛成するのは、私利私欲以外の何ものでもないのです。

不信任案が可決された場合、わたしは衆院議員の解散を主張します。めいめいが信を問われるべきなのです、震災復興に失敗を重ねる現政権および与党主流派も、政府の復興対応がうまくいっていないときをチャンスとばかりに不信任案を提出する元与党の現野党も、それらにかこつけて漁夫の利を得ようとする与党反主流派も。

小沢氏がまさしくそうですが、被災地で演説を行う、不信任案に賛成する立候補者たちがもし「復興もまだなのに、解散をした与党と政府はけしからん」と批判したら、それは全く的外れです。不信任案が可決したら、政府が取るべき手段は二つに一つしかありません。そのうちの一方を選択させたのは、言わずもがな不信任案に賛成した議員たちに他ならないのです。けしからんのは、自分たちなのです。何で不信任を突きつけられた政府が、「敵」に配慮する道理がありましょうか。

あるいはもっとラディカルにこう言うべきかもしれません、無能な政治家は要らず、有能な事務方に預けておけばもっと速やかに対策が立てられるのではないか、と――もっとも、こんにち、こうした皮肉すら言えなくなってしまったのは、原発事故の原因の一端には、行政府の監視の甘さがあったからなのですが。

−−−−−

ちなみに、わたしは確信(犯)的であるが消極的な民主党支持者で、菅内閣支持者であることを明言しておく。「消極的な」というのは、せいぜい、自民党公明党たちあがれ日本みんなの党には投票しない、という程度の意味で、「熱心な支持者」と区別されるために、あえて断り書きをつけておく。

菅内閣を明確に支持するのも、たいして意味のあるところによるものではない。同じ議院内閣制を採用しているイギリスやドイツを見ていると、あちらは一人の首相が長く政権を担当しており、国際世論の観点から言えば、そのほうがどう考えてもいいに決まっているからである。

日本の場合、首相がコロコロ変わっても、与党の「元老院」が実権を握っているから問題はない、という理屈は国際的には全く通用しないどころか、非民主的であるとして批判されるであろう。その構図を今の日本に当てはめると、「元老院」の長老たち=小沢、鳩山と、そうした陋習と老害に立ち向かう新しい政治の標榜者=菅という対立が見えてくる(年齢は3者とも大して変わらない)が、それならなおさらわたしは菅を支持する――その一方で、菅内閣は官僚に使われてい るという古い政治から脱せられていないようであるが。