Adornierte kleine Moral

たまには学術的なことを記そうと思う。成海璃子バカ(もしくはヘヴィメタル馬鹿)だと思われているのは全く意に介さない――むしろ望むところだ!――が、どういうわけかクビ大の英文院生だと思われているのは、我慢がならない。

だから今回はドイツ語のことに関して書くことにする。それも、ドイツ語の中でもとびきりに難しい――というかメンドくさい――ドイツ語である。

神話としての[民族伝承=メルヒェン]

ドイツの哲学者テーオドール・アドルノの主著の一つである『ミニマ・モラリア』は謹言集であり、153篇の断章から成る。ゲルマニストなら知らない人はいないのだけれど、アドルノの書くドイツ語は、何を言っているのかイマイチ判然としない。なぜかと言うと、内容そのものが抽象的な議論で理解しがたいのだが、それをさらに一般使用頻度の低い単語を多用し、しかも余談を省いた無駄のない文章という難解なドイツ語で書くものだから、二重に難解である――人はこれをadornieren(アドルノする)と呼ぶ。

大学で本書の講読をする授業があり、私は52番「コウノトリはどこから赤ん坊を連れてくるか」(Woher der Stroch die Kinder bringt.)の翻訳を担当した*1。ドイツ語それ自体は大して難しくなかった――その割に結構誤訳を指摘されたが――のだが、相変わらず“何を言いたいのか”よくわからない。それは、ドイツで博士号まで取り、現在アドルノを研究している私の指導教員までもがそう言うのだから、間違いない。

一つには、アドルノが採り上げている題材の問題である。アドルノの哲学を語る上で重要なのが「啓蒙」という概念であり、『啓蒙の弁証法*2において『オデュッセイア』が採り上げられているように、神話とは人々を啓蒙したり、ある種の模範となるべき人間像を描いているものであるという(私は同書を難しすぎて途中で放り出してしまっているので、よくわからん!)。

私が翻訳を担当した52番の本断章の場合、アドルノは神話の代わりに童話(Märchen)を俎上に上げている。童話と言っても、例えばヤーコプとヴィルヘルムのグリム兄弟が収集した有名なメルヒェンは元々土着の民族伝承であり、人々に対して神話と同様の影響力を持っているというわけである。

本断章は、童話の中に描かれる人物像が、ある種の類型化を示していると言いたいようである。つまり白雪姫の悪いお妃とか、ブレーメンの音楽隊士とか「こんなやつ、実際にもいるよな」ということを示唆したいわけである。

そこに第二の問題が現れる。アドルノ先生は、我々日本人にとっても超有名な「白雪姫」、「赤ずきんちゃん」、「ブレーメンの音楽隊」を除けば、ご自身が採り上げられた童話の出典を、いちいち親切丁寧に明示してはくれないのだ。元の童話のストーリーを知らないから、御仁のご高説が適当であるか否かを私たちは判断できない。先生は「こんなの知ってて当然だろ」と言わんばかりである。ならば邦訳者の三光長治が明らかにしてくれてもよかったものを。私の指導教員は「教養の問題や。我々には教養がないっちゅう話や。三光さんも訳注をつけてへんということは、やっぱ知ってて当然ちゅうことなんやろう」と言う。

アドルノはどこから「童話」を持ってきたか

そこで、私は童話に詳しい読者諸賢に情報提供を求めたい。本断章の拙訳を以下に示し、ご存知の方に出典をお聞きしたい。

52番「コウノトリはどこから赤ん坊を連れてくるか」

いずれの人間にも童話をもとにした、ある理想像があり、人はまさしく本当に長い間それを探し求めさえすればよい。
1.例えば、ある美女は鏡に尋ねる、彼女もまた白雪姫に出てくる女王様のように世界で一番美しいのかどうかを。
2.好き嫌いが多く、死ぬまで要求が多いために死んでしまう美女は、「わたしはもうお腹いっぱい、もう葉っぱはいらないわ。メー、メー」という韻文を繰り返すメスヤギをモデルとして生み出されたのである。
3.心配事が多いけれどもくじけない男は、森に住むしわくちゃな老婆に似ている。この老婆は彼と知らずに神様と偶然出会い、彼を助けたお陰で彼女の家族全員とともに祝福された。
4.また別の男は幸福を為すために幼い少年としてこの世界に生まれ、たくさんの巨人たち*3に打ち勝ったけれども、ニューヨークで死ななければならなかった。
5.ある女は赤ずきんちゃんのように都市という原生林を抜けておばあさんにケーキを一つとワインを一瓶届けるが、
6.他方でまた別の女は、恋人のもとで星の銀貨を手にした少女のように、子どものように恥ずかしげもなく裸になる。
7.ずる賢い男は自らの強かな獣の魂を自覚するだろうし、彼の友人たちと共に没落することを望まないので、彼はブレーメンの音楽隊を結成し、彼らを盗賊の巣窟へと連れていき、そこで詐欺師どもを出し抜くが、けれども再び家へと帰りたいと思っている。
8.憧れの眼差しでお姫様を見上げるカエルの王様は、改善の見込みがない気取り屋である。なぜなら、彼女が彼を救済してくれるのではないかという希望を諦められないのだから*4

言うまでもないが、文頭の番号は便宜上私がつけたものであり、原文では全ての文章が段落分けされずに連ねられている。

上でも述べた通り、1.は「白雪姫」、5.は「赤ずきんちゃん」、7.は「ブレーメンの音楽隊」であろう。なぜならアドルノにしては親切にも、ほとんどタイトルそのままの名詞を挙げてくれているからだ。また8.は内容から推測するに、「王様」か「王子様」の違いはあるが、日本で言う「カエルの王子様」であろう。またウィキペディアによれば、6.はどうやら「星の銀貨」のようである*5

あとは無教養な私には全くわからないし、検討もつかない。しかし別のドイツ文学の教員に尋ねたところ、わかりやすい1. 5. 7. 8.のいずれもがグリム童話から採られているのは間違いないから、他も恐らくグリム童話であろうとの由である。

意図的な“誤読”

さて“女嫌い”の私――「8歳も年下の女優に入れ込んでいることを散々公言している人間が何を言うか!」という批判が聞こえてきそうだが、私が彼女のファンであることと、私が大層なミソジニストであることは全く矛盾していない。その証拠に、私は成海璃子の性格と精神とに全く興味がない――は本断章を、指導教員の読みとは異なり、「いかに人間が――特に女が――くだらない存在か」というふうに“誤読”した。

そもそも、私の読みもあながち的外れでもないように思われる。私の指導教員の理解が、品が良すぎるだけとも言える。上にアドルノが挙げている8つの類型のうち、どれか一つでも肯定的な人間像を浮かび上がられているだろうか――せいぜい3.だけであろう。

もしかすると5.の女性は、おばあさんに優しい人物だと取られうるかもしれないが、それだけではない。高層ビルディングが林立する摩天楼の大都会を颯爽と通り過ぎる、したたかな独身女性が、私には想起される。そんな女性は、ヘナチョコな狼どもなど問題としないだろう。特に20世紀も最初期に生まれたアドルノの目には、そのような女性が好意的に映ったかどうかは定かではない。

8.は確かに情けない男性像がまず描き出されるが、私の読みとしては、男どもが遍く女性たちに抱くかもしれない「救済の手を差し伸べる聖母像」を見事に打ち壊している。女なんて存在は、幻想を抱くほど高尚なものではないと言わんばかりのような気がするのである。

そのように“誤読”していくと、本断章のタイトルすら意味深長である。「コウノトリはどこから赤ん坊を連れてくるか?」 決まっているではないか、女性の子宮からである。

*1:訳書においては、pp.120-121。

*2:マックス・ホルクハイマーとの共著。徳永恂・訳、岩波書店、1990年(文庫版は2006年)。

*3:原文では≫mit vielen Riesen≪と書かれているこの箇所を、三光長治は「つつがなく諸国を遍歴した」(p.121)と訳しているが、それは三光がRiese(巨人)をReise(旅行)と誤読したか、原文の誤植と取ったかのどちらかである。私の指導教員も当初誤読していたが、指摘されて気が付いた。この箇所が誤植かどうかは本書各版を比較すればわかるかもしれないが、彼によれば誤植の可能性は少ないという。私は原文通りに訳出した。

*4:Adorno., Theodor W. Minima Moralia. Reflexionen aus dem beschadigten Leben. In Gesammelte Schriften. Band 4. pp.96-97. が引用元のはずである。というのも、私は与えられたコピーを読んでいるので、書物そのものは持っていないから、コピーの提供者に訊かないとわからない。

*5:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E3%81%AE%E9%8A%80%E8%B2%A8(07年11月18日)