Eine Geschichte von Menschen, von Gut und Böse

映画監督、映画評論家の井筒和幸は、映画とは単なるエンターテイメントではなく、思想とメッセージ性とを備えるべきだと主張したいようである。この点では私は彼に同意する。ハリウッド映画の何が面白いのか私には理解できない。普段はばかばかしいテレビ番組で脳を休ませているのだから、映画くらい脳を使わされて考えさせられる作品に接したいものである*1

善き人のためのソナタ スタンダード・エディション [DVD]

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1984年、東西冷戦下の東ベルリン。国家保安省(シュタージ)局員のヴィースラーは、劇作家の〔ゲオルク・〕ドライマンと舞台女優である恋人のクリスタ〔=マリア・ジーラント〕が反体制的であるという証拠をつかむよう命じられる。成功すれば出世が待っていた。しかし予期していなかったのは、彼らの世界に近づくことで監視する側である自分自身が変えられてしまうということだった。国家を信じ忠実に仕えてきたヴィースラーだったが、盗聴器を通して知る、自由、愛、音楽、文学に影響を受け、いつの間にか今まで知ることのなかった新しい人生に目覚めていく。ふたりの男女を通じて、あの壁の向こう側へと世界が開かれていくのだった…*2

本来ヴィースラーは、ドライマンたちの「物語 Geschichte」の観察者であり、「歴史 Geschichte」の記述者ではなかった。本作の原題が示すように、それは彼にとって間違いなく「他の人たちの人生(»das Leben der Anderen«)」のはずであったのだ。

物語の終盤で、シュタージの強制捜査がドライマン宅に入る直前に、ヴィースラーがドライマンの隠していたタイプライターをこっそり運び出す。このタイプライターはドライマンが「西」へと「東」の惨状を訴える記事を「西」の雑誌に書くために用いたものであり、シュタージは密告の証拠としてそれを探していたのである。タイプライターの印字を見れば、機種を照合することができるという。

このシーンは、ヴィースラーが物語観察者をやめ、歴史記述者になる決意をしたことが象徴的に表現されているように思われる。もちろん行動の大胆さは言うに及ばないが、劇作家が言葉を綴った道具を彼が持ち去ったことは、批評のアマチュアである私には単純に、一種の暗示を与えていると感じられてしまう。

ハンナ・アーレントに言わせれば、私たちが私たち自身の「物語」の脚本家ではありえない。なぜなら私たちは私たちの人生の展開を全く知らないし、それゆえその結末に関して一切の責任を負っていないからである。私たちは脚本家ではなく、むしろ主人公である。そして私たちの「物語」を織り成すものとは、他ならぬ多数の人間による数え切れない交流である*3

その意味で、ドライマンたちの「物語」を垣間見、あまつさえ陰に陽に手助けをしてしまったことで、ヴィースラーもまた「物語」の主人公の一人となってしまったのである。そう考えると、彼の観察対象がまさしく舞台演劇、すなわち物語を創る者たちであったということは偶然だとは思われない。

私はまた、ヴィースラーに、ナチスドイツにおける「ユダヤ人問題の最終解決」の最高責任者、アドルフ・アイヒマンを重ねて見ていた。すなわち、「上」からの命令に忠実で、淡々と人間の大量殺人すら実行してしまう生真面目で狭量な人物像である。ヴィースラーもまた命令に従い、無機質な表情で尋問、そして盗聴を行っていた。

その彼がドライマンたちの「物語」に意図せずして巻き込まれてしまったとき、彼は自分にとって「善」とは何か、「悪」とは何かと内省する思考を取り戻すのである。アイヒマンは自己保身のために体制という機械の一部分になり、思考を持たない「労働する動物」と化したが、ヴィースラーは、「物語」という人間の多数性の営為に触れることで思考という「人間の条件」を取り戻し、自己の保身――最終的には封書の開封係り(恐らく最低の閑職)への降格であったが、「社会主義の敵」に味方していたことが発覚したならば、種々の処刑の可能性もあったはずである――と引き替えに彼は「人間」となったのである。

ベルリンの壁が崩壊後、ドライマンはガウク機関(現・ビルトラー機関)が管理するシュタージ中央書類館*4で、シュタージが彼に関して収集、補完した個人情報書類を閲覧する。そこで初めて彼は、盗聴担当者が事実を正確に報告しなかったために、彼らは逮捕されなかったことを知る。報告書にはいずれも"HGW XX/7"と記されていた。これが報告担当者がヴィースラーであったことを示す暗号である――冒頭のHGWは、彼のフルネームがハウプトマン・ゲルト・ヴィースラー(Hauptmann Gerd Wiesler)であることから、イニシャルであろう。

恋人クリスタを自殺で亡くし、壁崩壊から2年間ずっと筆を折っていたドライマンは、新作の物語『善き人のためのソナタ』(Die Sonata vom Guten Menschen)を発表する。同じく壁崩壊後は郵便配達の職についていたヴィースラーは、偶然通りがかった書店の前で、ドライマンが新作を発表したことを知り、書店に入る。平積みにされた本を手に取り、最初のページに記された献辞を目にする。「HGW XX/7に捧げる*5。」レジの店員はヴィースラーに、贈答品として包装するかどうかを尋ねる。彼はこう答えた。「いいや、これは私のための本だ(Nein. Das ist für mich.)。」

彼らの「物語」を巡るドラマは、ヴィースラーの“ための”物語が彼自身に渡ったところで終わりを告げるが、それもまた大いに示唆的である。彼が物語を受け取ったことは、彼が自らも「物語」の中にあること、自らも「人間」になったことを彼自身が自覚したことを暗示しているように思われる。少なくともドライマンを監視し、恋人の自殺の要因となったシュタージの一員である自分が彼に許され報われたと、ヴィースラーが感じたことは疑いがない。そしてまたしてもアーレントによれば、「許し」とは三つの人間の基本的な活動力である「活動」と密接に結びいている*6


本作を私は今日11月9日*7に観た。私の指導教員が企画し、ゼミナールの時間を使い、大きなスクリーンとスピーカーを備えた大学の教室を借りて「上映会」が行われたわけである。

やはり映画は大画面と大音量で観るものである。拙宅のチンケなモノラル14型で観ては、いかに素晴らしい作品であろうとも魅力は半減以下になってしまう。

ちなみに11月9日こそが、ベルリンの壁が崩壊したその日である(1989年)。そんな日にこの映画を観ようと思った私の指導教員と先輩院生は、“粋”である。

その指導教員も、ヴィースラーがドライマンの本を買うラストシーンでは感涙しておられた。彼は部屋のやや後方に座っており、我々からは姿が見えなかったのだが、鼻をズビズビ鳴らす音だけは聞こえていた。我々院生は、やけに感受性が強い学生がいたものだと思っていたのだけれども。

*1:少なくとも私に言わせれば、ドラマ『受験の神様』が面白くなかったのは、観る者が色々と考えさせられるからである。同作は名作であるがゆえに“迷作”である。

*2:http://www.eigaseikatu.com/title/16953/(07年11月10日)〔 〕内は引用者の補足。

*3:アレント、ハンナ(志水速雄・訳)『人間の条件』筑摩書房ちくま学芸文庫)、1994年、第五章。

*4:桑原草子『シュタージの犯罪〈旧東独秘密警察〉の犯罪』中央公論社、1993年、第一章を参照。余談だが本書はもうすぐ退職する学部時代の恩師からつい最近もらったもので、まさかそのあとすぐにシュタージに関する映画を観る機会に恵まれるとは予想だにしていなかった!

*5:ドイツ語で書かれた献辞を正確に訳すと「この本をシュタージのコードネームHGK XX/7ことヴィースラーに捧げる――感謝を込めて」となる。

*6:アレント、前掲書、第五章。

*7:但し本稿の掲載は日付を越えて10日になってしまった。