子どもが殺される

私が中学1年生のときである。恐らく入学したばかりの1学期だったと思う。学校から配布されたアンケート用紙にこういう趣旨のことが書かれていた。「どうすればいじめがなくなるか」。

「やられたらやり返せ。目には目を、歯に歯を」という旨のことを書いた。これは明らかに記憶している。現在にまで至る歪んだ性格の一端が窺える、私の面目躍如の場面である。

担任に職員室へ呼び出された。危険思想の持ち主として目をつけられたのか。「加害者には被害者の気持ちがわからない――わかっていたら、いじめなんてしない――というのも嘘だというのは、最近になって気付いたが――のだから、理解させるには実体験させるしかない」という意図を伝えるのに小一時間を要した。

そのアンケートの背景を私はもはや思い出すことができないが、1997年のことだから、マスコミを賑わせていた「キレる中学生」が背景にあったものと思われる。兵庫県神戸市の「酒鬼薔薇聖斗」事件はこの年の5月に発生した。




社会学者の内藤朝雄は、今回の「いじめ」問題についてこのように苦言を漏らす。

「今回のいじめ報道祭りを見ていて、十年前、二十年前とまったく変わっていないことに怒りを禁じえない。今までの、いじめ研究の蓄積はなんだったのだ。流行の後に無視され、忘れ去られたのではないか」

私が高校での必修科目未履修という“新しい”問題には比較的早く言及したのに対し、今まで今回の「いじめ」問題に何にも書かなかったのは、時間がなかったというのが最大の理由だが、それと共に、この問題に何ら新しく付け加えるべきことがなかったからである。内藤の言葉を待つまでもなく、「いじめ」問題は10年に一度のスパンで流行るインフルエンザのようなものである。断言するが、半年後には絶対に今の騒ぎを人々の大半は忘却の彼方に追いやっている。

「いじめ」問題を、“ヒューマニスティック(人道主義的)”な教育学者――そもそも教育学というものがジャン・ジャック・ルソー以来のヒューマニズムで満ち溢れている――以外の学者で継続して研究しているのは、内藤以外には少なくとも日本にはいないのではないかと思っている。その内藤が、この「いじめ」による自殺者が大量生産されている現状にあって沈黙しているはずはないと思って探っていた。内藤は『図書新聞』に月1回の連載時評を持っているので、そこで何らかのコメントがなされるものと予測していた。

そのように目論んでいたら、2006年11月18日(土)発行の同紙で、案の定内藤が「いじめ報道祭りへの怒り」と題して、今回の「いじめ」問題について論じていた。冒頭の引用も、そこから引いている*1

内藤は学校を「いじめ」の温床として「中間集団全体主義」と呼んでいるが、私のような一般的な意味での全体主義の研究者に言わせると、現代の我々でさえも、人の死に際するときほど、全体主義社会に首まで浸かっていることを痛感させられるときはない。ハンナ・アーレントによれば、私たちは未だに、長きに亘って全体主義に支配されている。ナチスドイツの強制収容所全体主義の極まった帰結の一つに過ぎないのである。

「マス・メディアの報道が自殺の哀れさに焦点を当てれば、模倣する被害者が続出するだろう。自殺の哀れさで視聴率を稼ぐ〔テレビの〕プロデューサーは、死の商人とのそしりを免れない」(〔 〕は引用者の補足、以下同様)

私は、強制収容所の遺構を見学してきた人の感想が通り一遍であることに注目する。すなわち諸人挙りて「当地でかつて繰り広げられた事実の凄惨さに、頭が真っ白になって何も考えられなくなった」と口を揃えるのである。

私はこうした現代人を、アーレント曰く「死者の世界」である強制収容所に対して、「生者の世界の住人」と呼ぶ。そして「頭が真っ白になって何も考えられなくなった」というその反応を、「生者の世界の偽善」と呼んでいる。

右倣えて的に皆一様に「何も考えられなくなる」、つまり思考を停止させておけば「死者の世界」に対して「哀悼の意」を表したことになると考えるのは、まさしく偽善である。日本では毎年8月15日に、アメリカでは今後は9月11日に国を揚げての似たようなセレモニーが行なわれているが、あれは偽善以外の何ものでもない。十年一日変わり映えのない儀式に際してポーズだけとっておけば「哀悼の意」を示したことになるのか。

「自殺の哀れさ」に焦点を当てる今回の各マスコミの報道も、偽善である。わかったフリをして、何もわかってはいない。内藤は「世をあげてのいじめの問題化が、もっぱらマス・メディアに依存していることは、なさけない」と述べているが、私はそれどころかマスコミに問題化を一任していては、またしてもこの問題を流行一過の感冒に堕する危険性があると考える。言うまでもないことだが、マスコミの構成員というのは極めてひ弱なサラリーマンであり、いわば全体主義社会を下支えしているその他の労働者と何ら変わりがない。まして現在のようなマスコミの弱体化――と思っているのは私だけかもしれないが――に際しては、マスコミに何らかの期待をかけることは無意味である。ナントカ新聞やテレビナントカの会社員に社会的な希望を託すのは酷であるし、無駄でもある。

更に「〔「いじめ」で問題が起こったときの〕組織人としての教員ほど醜悪なものはない。もちろん、人間の尊厳よりも組織に対する忠誠の方が重視されるので、貝のように口を閉ざすばかりか、積極的に嘘をつく」という指摘は、もはや付言の余地はないだろう。呆れるばかりの教師――内藤は意図的に「教員」という語を用いているが、私は逆に意図的に「教師」と呼ぶ――たちの小心ぶりは報道が日々伝えるところだが、私などは彼らにアウシュヴィッツ強制収容所の運営責任者であったアドルフ・アイヒマンの姿を重ねてしまう。アーレントが目撃した、裁判所に連行されたアイヒマンの姿を綴った書『イェルサレムアイヒマン』の副題は「悪の陳腐さについての報告」である。アイヒマンは、自分の職務が悪だと思ってはユダヤ人を大量に「処理」しはしなかった。彼は、忠実に上司の命令に従って任務を淡々とこなしていただけなのである。上司=校長の命令に従って「いじめ」を隠蔽したとしても、私はサラリーマンである教師に社会的責務を押し付けるのは酷であるし、無駄でもあると思う。教師は、かつてからそうであったが、聖職者などではない。

たかだか合計100時間の審議をした程度で、政府は教育の根幹となる教育基本法の改正案をごり押ししようとした。この100時間といっても、安倍政権に交代してから数ヶ月の間に60時間強の審議を行なっており、この「いじめ」問題はおろか、必修科目の未履修問題タウン・ミーティングの「やらせ」問題が十分に議論がし尽くされたのか――そんなわけはない。未履修問題のときは怪気炎を上げていた文部科学大臣の「筋道をはずれたことにはウンといわない硬骨漢」*2伊吹文明も、数多寄せる「自殺予告」に辟易したのか、子どもたちに向けたアピールはメモを読み上げるだけのやる気のなさ。そもそも日本の教育の長たるこの硬骨漢は、あの教育基本法改正に至る経緯に、何も「筋道をはずれたこと」はないと思っているのだろうか――所詮彼も組織人でしかない。

いま、子どもたちを取り巻く環境は最悪である。誰も子どもたちを守ってくれはしない。親は? 果たして親が子どもたちを守ってくれるのか。マクロな視点で見れば、子どもたちの親である大人たちこそが年間3万人も自殺している「いじめ」社会である。親だけが子どもを守ることができるという意見には、私は無批判には首肯しかねる。

13歳の私が、22歳の私に時を超えて訴えかける。「自分の身は自分で守るしかない」。誤解を承知で言うが――13歳から精神的に全く成長していない証だが――、自殺するくらい「いじめ」が嫌だったのならば、相手を殺せと私は言いたい。否、恐らくそろそろ「いじめられっ子」が「いじめっ子」に復讐して殺害するという事件が発生する気がする。でも私は、道徳的には認められないその方がよほど健全だと思うし、私は「加害者となった被害者」を責める気にはなれない――どうせ私は道徳哲学者でもないし。

いま、子どもたちを取り巻く環境は最悪である。私は「教育チケット制」などのようなラディカルな教育改革を提案する内藤には与しないが、しかし何か手を打たないと、また子どもたちが殺される――もはや子どもたちは自殺で“死ぬ”のではない、“殺される”のである。

*1:なお内藤は自身のブログに、同じ記事を掲載している。http://d.hatena.ne.jp/suuuuhi/20061116 06年11月16日付の記事の中程に当該記事が公開されている。

*2:伊吹のウェブサイトにおけるプロフィールより。http://www.ibuki-bunmei.org/profile.html