いつも心に一本の、鋭く尖った、誰に折られない槍を持て

朝のワイドショーが、愛知県の高校教諭・宮本延春氏を取材していた。

 昭和44年、愛知県生まれ。小中学校で落ちこぼれる。中卒後、見習い大工、ミュージシャンを夢見る。23歳のとき物理学に出合い、のめり込む。24歳、愛知県豊川市の私立豊川高校定時制)に入学、27歳で名古屋大学理学部物理学科へ。同大大学院までの9年間、素粒子などを研究する。37歳で母校の豊川高校教諭となる*1

小学2年生から中学の3年間に至るまでいじめられ続け、2度自殺を考えたという。ワイドショーのコメンテーターは「彼がおかしな道に進まなかったことが本当に幸いした」と述べたが、同感である。恐らく、彼を生かし続けたものは、最初は少林寺拳法であり、次に音楽、そして物理学だろう。

この世界は、人間の「市場価値」しか重要視しない。そういう世界の中で、彼が通知表オール1の成績から難関国立大学に入学したという事実をもって、彼に「市場価値」が与えられたと見るのは、多分穿っている。でも私はそういう見方をした。

彼はいかに虐げられても、実直さを失わなかった。それは彼が、彼自身の「生来的な自然の価値」を矜持し、損なわなかったからだ。この「市場価値」に支配された世界にあっては、それは真実の奇跡である。

「市場価値」の世界でしぶとく生き抜くために、自らの力で自分自身の「生来的な自然の価値」に「市場価値」を付与することは、より賢い方法であろう――自覚的か否かは別として。まことに極めて陳腐な言い方で口にするのもはばかられるが、「誰にも負けないものを持て」という教訓は時宜を得ている。

自殺する者は須らく敗北感にまみれて死ぬ。彼らはこの「市場価値」の世界から無用者の烙印を押されたのだ。最低の屈辱と孤独感に打ちひしがれて死ぬのだ。だが、自分の価値を否定する奴に打ち破られて殺されるのは、屈辱ではないのか。人間のクズに黙って殺されるのは、自分は“人間のクズ”以下だということを追認するようなものだ。


クズどもに負けない槍を持て。
自らの「生来的な自然の価値」という槍を磨き上げよ。
いざとなれば、その槍で自分の敵を突き殺すがいい。