権力者の真意を探る

柳沢厚労相発言の要旨

人口統計学では、女性は15歳から50歳までが出産をしてくださる年齢だ。2030年に30歳になる人を考えると、今、7,8歳だ。もう、生まれてしまっている。生む機械と言ってはなんだが、装置が、もう数が決まってしまった。機械と言っては、本当に申し訳ないんだけども。機械って言ってごめんなさい。その生む役目の人が、ひとり頭(何人産むということ)で頑張ってもらうしかない。(27日、松江市の講演で)*1

かの厚生労働大臣におかれましては、ご心痛お察し申し上げる。確かに、女性は明らかに機械ではないが、失言の直後に謝っているのだから、女性をモノや道具に準えることはよろしくないという倫理観が彼には備わっていたことは、ひとまず私たちは認めなければなるまい。

「栄養を与える男の労働と生を与える女の労働とは、生命が同じように必要とするものであった*2」と認めているのは、ハンナ・アーレント(Hannah Arendt)である。フィクションの話でもない限り、今のところ私たち人類は、有性生殖なしに個体を増殖させることは不可能である。その意味で、子どもを産む仕事は女性にのみ被けられた“生物学的機能”である。

ところで、少子化対策というものを権力者が行う場合、まず第一に考えるのは、どのようにすれば人は子どもを産みやすくなるかということである。そして、そもそもなぜ少子化対策を行うかというと、将来税金や年金を支払い、国を支える国民が少なくなれば、国家の存亡に関わるからである。

こうした、少子化対策を行う権力者とは、鮭の養殖業者に似ている。彼は自らの事業を維持するために、人為的に鮭の受精卵を生成する。養殖魚の出荷量が低下すれば、彼の事業の存亡に関わる。

しばしば政府関係者が口にする「子どもを産みやすい社会を作る」という言い回しは、私には奇妙に思われる。その発想はますます養殖業者に接近するものだ。養殖業者は自らの意のままに家畜の数を殖やそうと試み、そのために餌を欠かさず、畜舎を整える。ならば権力者が「子どもを産みやすい社会を作る」と言うとき、彼らは国民を家畜のように見なしているのである。

そう言えば、渦中の柳沢厚生労働大臣は、あの労働時間規制免除制度(ホワイトカラー・エグゼンプション)の積極的な推進者である。実際の、彼の腹の内は知る余地もないし、与党の同僚が彼の人柄をどう持ち上げようとも、柳沢氏が労働する男の国民も、出産する女の国民も、意のままに扱えることを前提に政治家をやっていることは間違いない。

安倍首相自身も「言葉の真意を捉えるべきだ」と、柳沢発言を批判する野党に反論したが、私もその通りだと思っている。野党の批判力がいまひとつ弱いのは、柳沢氏自身も女性を機械呼ばわりしたことについては悪いと思っている(ように見える)し、それについて何度も陳謝しているからである。ただ揚げ足をとるだけの批判では、マスコミを喜ばせるだけのパフォーマンスに過ぎない――そんなことでは、彼らが政権を奪取する日はしばらく遠そうである。

一般的に、権力者とは被支配者に対してあくどいことを企んでいるものである。しかしそれを鉄面皮で隠しとおすのが、権力者の美学であろう。その点で、現在の権力者諸氏もまた身の丈に合わぬ職責を負っているようにも見える。そして、たとえ権力者が無能でも我慢しなければならないのが、私たち国民である。

*1:http://ifinder.jugem.cc/?eid=429より引用。

*2:志水速雄・訳『人間の条件』(筑摩書房ちくま学芸文庫〕、1994年)p.51 ISBN:4480081569