(高校未履修問題・その2)生徒を数字でしか認識できなくなった教師たち

全国高校でのいわゆる「履修漏れ」問題について、私は先の記事で「大学受験に必要ない科目は廃止せよ」と提言した。これは当然皮肉である。社会哲学者・仲正昌樹よろしくの――そしてもともとは、フリードリヒ・シュレーゲル(Friedrich Schlegel)をはじめとするドイツ・ロマン派の――「イロニー」という高等テクニックだ。

それはさておき、しかし“責任を感じた”未履修校の校長が自殺するなど、皮肉も言っていられなくなってきた。なので、今度は“まともに”私の意見を述べておきたいと思う。しかし所詮私は批評家気取りの大学生ブログ書きなので、あまり重用されても困るとは、申し添えておく――これは“真性の”皮肉である。

私は、世界史・日本史・地理(地歴)にせよ、いずれにせよ、受験に不必要な科目を勉強しないことに異議は唱えない。どの科目が学習者にとって必要で、そして不必要であるかは、その当人が決めることである。もし大学側が大学入学予定者に豊かな学識を求めたいのであれば、入学試験としてそれに相応しい試験問題を提示すればよいだけの話である。「試験科目を多くすると、受験者が減ってしまうから」などという後ろ向きな言い訳は、大学側の勝手な都合である。なぜ国立大学の多くはセンター試験で5教科7科目を課しているのか。なぜ東大と京大の文系学部は、国数英のほか地歴から2科目を課しているのか。彼らがそれだけ広範囲の知識を持った学生を求めているからである。

教育改革が叫ばれるこんにちにおいて最大の争点は「何をすればよい学校と呼ばれるのか」であり、これに教師たちは日々頭を悩ませている――振りをしている。実は彼らはわかっている。誰の目にもわかりやすいように、数で示してやればよいのである。つまり、有名私立大学に何人合格させたかであり、国公立大学に何人合格させたかであり、究極的には、東大京大に何人合格させたかである。

受験評論家の和田秀樹らが強調するまでもなく、受験生なら誰でも「受験には効率的な勉強が必須」であることを承知している。そうすると、不必要な科目は勉強しなくなる。ここで、一般的には、通常は世界史の教師たちは「受験に要らなくても勉強しろ」と怠惰な生徒たちを説教するものと思われていた。ところが、教師たちも怠惰になったとでも言うべきであろうか、大学に合格したい生徒たちと、生徒の合格実績が“プラス1”でもほしい教師たちの利害が完全に一致してしまったのである。生徒が「受験に要らないから世界史はやりません!」と声高らかに宣言したのに対し、教師たちは「よしわかった! 世界史なんてやったことにしておけば大丈夫だ!」と太鼓判を押してしまったのだ。

このことは、私には、ある一つの重大な危惧を抱かせる。教師たちは生徒を数字としか認識していないのではないか。400人の卒業生のうち、国公立大学合格者は100人未満、浪人は半分の200人などというように――私は敬意を払うべき同期生に対して、このような屈辱的な言葉を、教師からも年配のOBからも吐かれたことを鮮明に記憶している。

東大に合格しさえすれば、誰でもいいのか。どのような方法でもいいのか。国公立大学合格者を大量生産するだけが、進学校と呼ばれる高校の役割なのか。ならば私はその教師たちを、ハンナ・アーレント(Hannah Arendt)の言葉を借りて〈労働する動物〉(animal laborans)と呼ぶしかない。アーレントはそれを「“労働する”ために労働する者」(つまり、手段が目的化した者)の意で用いたが、〈労働する動物〉はなぜ労働するかを全く考慮していないからだ。

同じ目標としての数字を掲げるのでも、「東大20人、東北大50人」と言い放った私の尊敬する数学教師は〈工作人〉(homo faber)であったと私は信じたい。アーレントは〈工作人〉を中世における職人のイメージで語り、現代に残された唯一のそれは芸術家であるとしている。なぜ教え子を、彼・彼女の望む大学に入れてやらねばならないのか。それが人間製作者という職人たる教師の使命だからである。

更に〈労働する動物〉と化した教師たちが無視している事実がある。私はそのことを朝のワイドショーで思い知らされたのだが、日本の高校生は“たった50%しか”大学に行かないのである。残りの半分は専門学校に行ったり、そして勿論就職したりするのである。しかし〈労働する動物〉たちは大学合格実績にしか目が行かないものだから、卒業後すぐに社会に出る社会人候補生たちに、社会人としての十分な教養――今なお歴史的知識などを社会的教養と呼んで問題がなければの話だが――を備えさせることをすっかり失念してしまっているのである。これもまた、教師たちを〈労働する動物〉と呼んで相応しい彼らの近視眼的欠点を証明してしまっている。

教師たちが生徒たちを数字としか認識できなくなった帰結が、つまり大量生産品であり、もはやあたかも非人間的にしか扱えなくなった結果が、今回の未履修問題の本質である。こういう機関を「教育機関」と呼ぶに道徳的に相応しいかは、各人の判断に委ねたい。但し少なくとも私はこう思っている――「お金儲けって悪いことですかあ?」と、その内心には「金が儲かるなら何をやってもいい」という本音が潜んでいる発言を悪びれもなくしてしまう企業人が出てくる世情にあっては、もはや教育的道徳なんてものも吹き飛んでしまっているのではないか、と。

余談であるが、最近西村貞二『教養としての世界史』*1を読み始めた。私は独文科に属し、西洋の思想史を専攻しているのにもかかわらず、受験では日本史を使ったこともあり、世界史の知識に乏しい。今回の問題が大きくなるにつれて、私自身も反省させられた部分があってのことである。

教養としての世界史 (講談社現代新書 80)

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