(高校未履修問題・その1)無駄な科目はとっとと廃止せよ

「大学に合格するのって悪いことですかあ?」――村上世彰が企業ではなく、学校の経営者だったら、こう言うことだろう。

文系大学に進学したいならば、私立であれ国公立であれ、高校時代に世界史、日本史、地理(地歴)の中から2つも履修するのは非常に無駄である。なぜなら東大と京大の文系学部以外は、入学試験ではそ地歴3科目のうち1つしか課されないからである。

企業家は「お金儲け」のためなら何だってする。受験生は大学合格のためなら何だってする。が、両者とも、目先の利益に繋がらないことは"無駄なこと"として何一つやろうとはしないのだ。

だから、九部九厘の大学で地歴は1つしか課していないのだから、むしろ高等学校の指導要領が世情に適していないのである。地歴2科目は、東大や京大に行きたいエリート候補受験生だけが自主的に履修すればよいのである。高校3年間で地歴は1科目だけ履修すればよいというように指導要領を改訂すれば、受験生は大喜びすることだろう。

あるいは、一部の大学では地歴や公民すら課さないところもあり、あるいは国語すら不要の大学だってある。ならばもはや高校での学習というものはもはや無駄なのものなのではないだろうか。

高校のこうした動きに、大学側は何ら苦情を申し立てることはできない。なぜなら大学こそが最初に、"上へ行く"つまり企業への就職に役に立たないことを切り捨てたからだ。国立大学で教養部を廃止し、いわゆる「一般教養」が一律必修ではなくなったのだ。こんにち、私立も含めて、英語以外の「第二外国語」が必修ではない大学の何と多いことだろうか。それどころか、文学部をすら廃止し、「政治的・経済的・社会的」にウケのよい国際教養学部とか、国際文化学部などといった「四文字学部」に作り返られている実情が大学にはあることをお忘れなく。

高校生にとって、大学に合格するために、地歴の2科目目は不要である。大学生にとって、企業に就職するために、一般教養は不要である。こうした考えを敷衍していくと、こうとすら言えるのではないだろうか――日本人にとって、生きていくために教養は不要である。恐らくこれは事実だろう。だからこれを機に、私は、高校は大学と同様に無駄な科目を切り捨てることを提案しよう。