自殺志願者のアモークラン、再び

17日(金)午前7時50分頃、茨城県取手市のJR常磐線関東鉄道常総線取手駅前で、同県守谷市在住の無職・斎藤勇太(27歳)が江戸川学園取手中学・高校のスクールバスに乗り込み、生徒たちを無差別に包丁で切りつけ、5人に怪我を負わせた。そのほか8人が危険回避の混乱で打撲などの軽い怪我を負った。斎藤は現場に居合わせた男性数人に取り押さえられ、駆けつけた警察官に殺人未遂容疑で現行犯逮捕された。

毎日jp http://mainichi.jp/select/jiken/graph/20101211/index.html(10年12月18日)

調べに対し「自分の人生を終わりにしたかった。不特定の人を包丁で傷つけたことは間違いない」と供述しているという。

大阪府池田市・池田小学校の宅間守(2001年)、土浦荒川沖駅金川真大(2008年)、秋葉原の加藤智大君(同)らに引き続き、またしても自殺を志願するアモーク・ランナー(amok runner)が、無関係の人々を巻き添えにしながら、死刑台から飛び降り自殺を図ろうとした。

いずれの事件に関してもそうだが、全く不可解にして、不愉快な事件である。「自分の人生を終わりにしたかった」のならば、数多ある自殺の方法から一つを、それも能う限り他人様に迷惑のかからない方法(つまり、列車への飛び込みだとか、高層ビルからの飛び降りなどはやめろ)で、そっと人知れずこの世から“御隠れ”になるべきだった。なぜ、この連中の頭の中では「自分の人生を終わりにする」ことが「無関係の他人様を無差別に殺傷する」ことと、直結されてしまうのだろうか。もっとも、宅間ら先人の例とは異なり、今回の無差別襲撃事件においては死者が出なかったことは、不幸中の幸いだったのだが。

無差別の殺傷事件を起こして死刑になることで達せられる“自殺”も、他人様に見られる中で果たされる“シアトリカル(劇場的)な自殺”の一種に数えてよいと思う。シアトリカルに自殺したい連中の心性は、悲劇的なヒロイズムそのものであり、「私はこんなに苦しんでいるのに、誰にもわかってもらえない」という自分勝手なナルシシズムにほかならない(シアトリカルな自殺については、id:RYUSUKE:20101029#p1を参照)。

小学校と高校で同級生だった男性(27歳)は斎藤について、「友人のいない孤独な男だった」と語る。

MSN産経ニュース http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/101217/crm1012172239059-n1.htm(10年12月18日)

高校の休憩時間には教室で1人座り、夏目漱石太宰治の本を読んだ。小学校の卒業文集に私の宝物を「本」、趣味を「本よみ」と記し、将来の夢を「小説家」と書いていた。

高校で副担任によく「声が小さい」としかられるほど、物静かな青年だった。

どこのどいつが、「他者」に「私」を理解されているのだろうか。せいぜい「私は他者に理解されている」と“錯覚”し、“誤解”し、“思い込んでいる”程度である。迂闊にも、人が「私は他者に理解されている」と言ってしまうとき、「他者」の頭の中で思い描かれている「私の苦しみ」は、その「他者」自身の経験や想像力によって「他者」自身に引きつけられた、「『他者』自身の苦しみ」である。それは明らかに「私の苦しみ」とは同じものではない。にもかかわらず「私は他者に理解されている」と考えることは、極めて傲慢だ。

人は誰しも「孤独」であり、この宿命からは逃れえない。ありうるのは、「私は孤独ではない」と錯覚することくらいである。

別の齋藤が出版社と組んで、胡散臭い方法で自作(?)の小説を売りさばいている一方で、こちらの斎藤も小説家になりたかったが、人の一人すらも殺せぬまま、死刑によって自らの人生を終わらせるという最後の望みすらも、達成させることは敵わなかった。何をやらせても上手くやる齋藤がいる一方で、皮肉な話だが、何をやらせても駄目な男である。