シアトリカルな自殺演出の心性

池袋で友人たちとワインを飲みながら食事をした。わたしたちが訪れたレストランのハンバーグがおいしかったこともあり、わたしも滅多に飲まない赤ワインを数杯飲んでしまい、ほろ酔い気分で店を出て、いい気分で東口五差路のロッテリアで23時の閉店間際までお茶しながら談笑していた。

店を出ると、東口五差路、とりわけ歩行者天国サンシャイン60通りは黒山の人だかりになっていた。都心中の都心、年中四六時中人の多い場所だが、人の動きが澱んで一箇所に固まっているのは、初めて見た。そして人の目線は空中の一点で交差し、多くの人が携帯電話を掲げていた。

友人の一人がわたしに言う。「自殺だ。」

豊島区東池袋1丁目2-1丸忠ビル、1階に携帯電話ショップが入居する建物の屋上に、人影が揺らめいていた。地上では、すでに街路樹数本を支柱にして転落防止用ネットが張られ、警察と消防によって交通整理が行われていた。

野次馬の中からは「死ぬなー!」という声も上がっていた。野次馬根性でわたしも自殺志願者の行く末を見守っていたら、友人たちとはぐれてしまった。シアトリカル(劇場的)な自殺の演出に、わたしは同情などという思いよりもむしろ、極めて不愉快な感情を来したのだけれども、友人たちが先に行ってしまっていたので、わたしも駅に向かうことにした。携帯電話で連絡をとり、池袋駅の西武口前で何とか合流できた。

電車に乗ったあとも、かの自殺志願者の行く末が気になったわたしは、携帯電話でTwitterを検索してみた。あれだけの野次馬の中には、「彼女」がどうなったかを書き込むお喋りな奴もいるだろうと思われたからである(その自殺志願者が女だと知れたのも、そのように書いてあったTwitterの投稿を見たからである。実際は暗くて、とりわけわたしも近視なので、7、8階建てのビル屋上に人がいるかどうかようやくわかる程度だった。もっとも、実際のところ、ソレが本当に女だったかどうかはわからない……が、わたしにはどちらでもよいことである)。

この自殺騒動を最初にTwitterで報じたのは、この投稿であると思われるが、わたしの携帯電話に残っている記録に拠れば、22時20分頃というから、わたしたちがロッテリアに入店した直後に女はショーを開演したようだ。

女が本懐を遂げられなかったことを知ったのは、丁度わたしが帰宅した0時頃だった。同じくTwitterで最初にこのことを報告したのは、この投稿だと思われる。ひとまず、わたしの夢見が悪くなることはなさそうだ。


数多の「優しい日本人」とは異なり、何らかの理由で現世に絶望し愛想を尽かせた者が自死を選ぶことを否定しない――が、わたしの目の前で死ぬのは気味が悪いので、厳に謹んでほしいと思う。余所でやってほしい。

わたしが唾棄し、激しく批難するのは、聴衆の耳目を集めるだけ集め、大勢の見ている前で果てることである。自殺方法を巡るシアトリカルな演出手法には、ヒロイズムの要素が多分に含まれていることは間違いない。「私はこんなに苦しんでいるのに、誰もわかってくれない、だから死んでやる」的な自己主張の顕現である。リストカットなどの自傷行為には患者のメッセージ(とりわけその苦しみ)が込められていることを報告する精神科医もいるが、自傷行為の不幸な結果、そのまま死亡してしまって自殺と処理された例はいくらでも出てくるだろう。

大概の人は自傷の傷を見せられるとショックを受け、その患者の内面的、精神的な苦しみを慮り、「同情」しようとするだろう。だがこの偽善的行為の裏に、解決できない疑問が隠されている。ある人の内面的な苦痛を、どうして他の人たちが完全な形で理解し、自分のものとすることができるだろうか、という疑問である。同情によって得られた感情は、ある程度までは経験に基づいているかもしれないが、いずれにしても結局は想像の産物でしかない。しかし、リストカッターの内面的苦しみと、同情者の同情は完全にイコールになりえるはずがなく(どちらかがエスパーでテレパシーを使えるなら、話は別だが)、「あなたの苦しみは理解できる」式の物言いは明らかに、その場限りの偽善である。ところが、とりわけ人間関係に病んで自殺を企てようとする患者は、他者から自分は快く処遇されているとは思えないから病を得てしまったわけで、偽善を見透かす能力にかけては健常者よりはるかに特化している。だから患者が他者からの精神的施しを偽善と察知してしまった場合、患者はますます自殺への衝動を強めることになるだろう。実際、鬱病やパーソナリティ障害の患者を治療する上で重要なこととして、治療者(精神科医心療内科医など)や看護者(家族や友人など)が患者と精神的に距離を取り、いわば患者に「同情」しないことを挙げる論者もいる(わたしが参照したのは、岡田尊司の本)。

わたしが自殺志願者にたいして冷淡なのは、勿論自覚的にやっている。目の前に今にも自殺しそうな人がいたら制しようとするだろうが、先にも述べたように、それは単にわたしの目の前で死なれると極めて夢見が悪くなるからであって、自殺志願者が可哀相だとか気の毒だとかといった同情は全くない。わたしは基本的に、死にたい奴は死ねばいい、という立場である。とりわけ女の自殺志願者にたいしては、わたしには一切の同情の余地はない。

そういうわけでわたしは、その理由が内因性である限りにおいて、自殺を一切否定しない――自殺の動機が外因性であるとは、例えば経済苦による自殺が挙げられるだろう。不景気の借金苦に関して言えば、自殺者を自死へと追い込んだのは社会的な要因であり、ひとり自殺者に帰せられる問題ではない。また、最近流行りの、労働基準法を無視した企業の違法就労によって自殺した被害者も、外因性の動機によって死んだと言える。学校や職場でのいじめを苦にした自殺も、問題であろう。ただ、外因性の自殺にしても、わたしはその原因には関心はあるが、社会的に抹殺された自殺者はあまり気にならない。死にたい奴は放っておけ、という態度である。

但し、自殺するときは他人様に迷惑のかからない方法で逝ってほしいと考えている。例えば、列車に飛び込まれると、ダイヤが乱れて途方もない数の人々に影響が及ぶ。首都圏で言えば、時間帯によっては百万人単位の人々に迷惑がかかる。アンタ一人が自殺したい程度の苦しみは、何十万、何百万もの人々に迷惑をかけ、無理無理伝えなければならないほどのものなのか。

大阪教育大学附属池田小学校で児童と教師を虐殺した宅間守や、秋葉原で大暴れした加藤智大君がやったようなアモークラン(amok run; 狂乱状態で暴れ回り、不特定多数の人々を殺傷すること)なんてもってのほかである。宅間が実際そうであり、加藤君も恐らくそうなるであろうように、自殺するための死刑判決を受けるために、何の関係もない人々を道連れにするのは、迷惑極まりない話である。池袋での飛び降り自殺と言えば、07年11月6日に、精神疾患の女が「池袋パルコ」の屋上から飛び降り、地上を歩いていた男性が巻き添えを食らって亡くなった事件があった(参照)。

自傷患者が自らの精神的苦痛をアピールするために自傷をするように、人が大勢いるところで、聴衆の耳目を集める形で自殺を図ろうとする劇場型の演出方法には、「自分がこんなに苦しんでいることをわかってほしい」という浅はかで、下卑た心性が通底している。このようなシアトリカルな自殺の演出家は、家族や友人、恋人は自分の苦しみを共有してくれると確信しているに違いないが、それが錯覚や想像の産物であることは明らかだ――そしてそれが、哲学的な知見に基づかない、学校や家庭での情緒教育に由来することも明らかである。

ところが実際は、家族や友人、恋人が苦痛を共有してくれることは、わたしたちがエスパーでない限り、ありえない。ところが、そう思い込むことは、人が生きる上では恐らく重要であり、そうした実存的要求の前では客観的な哲学的見解は雲散霧消してしまう。だからわたしは、自殺志願者にたいしてであれ、そうではない健常者にたいしてであれ、内面的苦痛の共有がどだい不可能であることを教え説くことは全く無意味だと考える。それを言って通じるのならば、自殺者数のいくらかは減っているだろう。アンタが本当に苦しんでいるときに初めて、周りの人間は本当に無理解で非協力的であることが理解できるだろうが、実はそれが連中の真の姿なのだから、それに耐えらなければ、死んじまったほうがアンタの幸せかもしれないぜ、ということである――但し、死ぬときは睡眠薬、首吊り、練炭など、他人様の見ていないところ、他人様に迷惑がかからないところで、本懐遂げなさいませ。


さて、わたしが目撃した池袋の自殺志願者のその後は知らぬ。この女は、他人の耳目をひきつけることに成功したから、自殺を思い止まったのだろう。これから続く耐えがたき生き地獄を想像すれば、本当は死んだほうが幸せだったのかもしれないが、生きていれば捕まえられる幸せも、ひょっとすると、あるかもしれないことは、再考すべきである。もっとも、死んでしまえば幸福を実感できる「私」はもはや存在しない、ということは哲学的認識として採用してよい。