出自と母語との非対称性

ロシアのテニス選手マリア・シャラポワMaria Sharapova)が、婚約したそうだ――7歳からアメリカに住んでいて、達者な英語を話す彼女に「ロシアの」という形容詞をつけるのに非常に違和感があるのは、わたしだけであろうか。アメリカ人シャラーポヴァではなく、ロシア人シャラポワの婚約相手は、アメリカ生まれの人間ではなく、スロベニア生まれのバスケットボール選手サーシャ・ブヤチッチ(Sasha Vujačić)だった。

1984年3月にスロベニア民共和国(当時)で生まれたブヤチッチは、同国がユーゴスラビア社会主義連邦共和国を離脱する1991年まで、社会主義を経験していたはずである。彼の母語は恐らくスロベニア語だと思われるが、連邦に加盟していた時代には同国ではセルビアクロアチア語が学校で教えられていたそうなので、彼はその言語もある程度までは理解できるかもしれない。連邦から独立したあとの同国では、第二言語として英語が教えられているというから、セルビアクロアチア語よりは英語のほうにすでに慣れていたかもしれない。
ブヤチッチは、16歳でイタリアでプロデビューしたのち、04年にアメリNBA入りを果たす*1。あくまでも想像であるが、必要に応じて時々は通訳や代理人の力を借りるにせよ、イタリアではイタリア語を、アメリカでは英語を身につけて話しているに違いない。それらは、当時の社会主義国で幼少期を過ごしたと思われるブヤチッチにとって、まず間違いなく母語どころか、異質な外国語であったことは間違いない。

他方シャラポワは、未だにロシアの市民権を有してはいるものの、7歳よりアメリカに住んでおり、生まれたときはロシア語を母語として身につけたに違いないが、今ではロシア語を外国人が話すような訛りで話すという。ロシアのテニス選手スベトラーナ・クズネツォワ(Svetlana Kuznetsova)は、ロシアで最も人気にあるテニス選手は誰かと尋ねられたとき、「もちろんシャラポワよ。彼女がロシア人と呼べるかどうかはわからないけど」と皮肉で返したそうだ*2。他方で、Youtubeで見られる、彼女がロシア語を話す様子を撮影した動画につけられたコメント欄では、「非常に長くアメリカに住んでいるわりには、彼女〔の話す英語〕には明らかにロシア語の訛りがあるし、他方で彼女のロシア語には正しいアクセントがほんの僅かしかない」とも言われている*3

そのようなシャラボワが自身の結婚相手として選んだのが、自身と同じスラブ語圏に出自を持ちつつ、現在はアメリカで仕事をしているスポーツ選手だという事実は、非常に興味深いであろう。愛は国境を越えるらしく、実際わたしの身の回りの友人・知人にも国際カップルがいるので、不思議はないが、コミュニケーションの問題は決して軽視されてはならない。その場合、一方が他方の母語に熟達していて不便がないか、双方にとっても母語ではないが後天的に身につけた共通語で用を足すか、のどちらかである。

シャラポワとブヤチッチが一体何語で愛を交わしているのか、興味は尽きない。スロベニア語もロシア語もともにスラブ語派なので、もしかするとブヤチッチがロシア語も理解できるかもしれないが、その可能性は彼の世代的にあまり高くないであろうし、先に述べたようにシャラポワはどうやらロシア語よりも英語のほうが得意なように思われる。ならばロシア語よりは英語のほうが役に立ちそうだ。

ある人にはとっては何の問題もないどころか、昨今の世界情勢を鑑みれば当然の事態かもしれないが、このわたし自身にとっては非常に奇妙に映じるのは、ともに同じスラブ語圏出身のカップルが、媒介言語としてスラブ系言語ではなく、英語を選ぶことである。もしかしたらこうしたわたしの違和感は、単なる島国根性か田舎者感覚かに由来するのかもしれない――否、ロシア人シャラポワではなくて、アメリカ人シャラーポヴァの母語はもはやロシア語ではなくて英語なのだから、彼らにとって英語は媒介言語とは呼べない、と考えるならどうであろう。だとしたら、彼女に見出されうる国籍=出自と言語との非対称性が、彼女のアイデンティティにどう影響しているか、それはそれで興味深いものだ。国籍=出自はロシア語のロシアだが、ボ語はアメリカの英語であり、長らく当地で生活してもいる。

つまるところ、彼女はロシア人なのか、アメリカ人なのか。答えは出しにくい問いである。その答えは彼女のアイデンティティに求められるのだが、その彼女が英語を母語とはしていないが英語とともに仕事をしている、出自に限って言えば自身と同じスラブ系の人間を結婚相手として選んでいる。今回の彼女の婚約報道は、シャラポワにおける出自と母語との非対称性という、下世話なゴシップなんかよりも遥かに追求しがいのある問題を提供するであろう。