政治の言語

10月4日にベルギーのブリュッセルでアジア欧州会議(ASEM)が開催された。その会場の廊下で急遽、菅首相と中国のウェン・チアパオ(温家宝)首相との日中首脳会談が25分間に亘って行われた。

この会談は廊下にたまたま置いてあった椅子に腰掛けて行われたというが、このような「首脳会談」は素人目にも異例なように映る。それ以上に異例であるように思われるのは、この会談において菅氏は中国語の通訳を伴っていなかったことである。各種報道によれば、日本側の通訳が菅氏の発言を英語に訳し、それを中国側通訳が中国語に訳してウェン氏に伝えた。そしてウェン氏の発言は、中国側通訳が日本語に訳して菅氏に伝えたという*1。つまり、日本側には英語のわかる通訳しかいなかったのにたいし、中国側には人数は不明だが英語通訳と日本語通訳が帯同していたということになる。

グローバル化した世界において、もはや国際会議では英語だけ通じればよいという日本政府の浅はかな態度かといえば、どうやらそうではないらしい。

この首脳会談を仕組んだのは、仙谷官房長官であったことが、6日に仙谷氏本人の口から語られている*2。1日に仙谷氏は中国外交を統括するタイ・ピンクオ(戴秉国)国務委員と電話会談をし、事前調整を図ったという。

朝日新聞は、偶然を装ってわざわざ廊下で会談が行われたのは「演出」だった、と指摘している*3。この会談は専ら仙谷氏が主導し、9月29日には細野豪志衆院議員を訪中させたことに始まり、ブリュッセルには仙谷氏腹心の福山哲郎官房副長官を菅氏に同行させ、ぎりぎりまで調整が行われていたという。菅氏に中国語の通訳がついておらず、英語を介して会談が行われたことも、急な出来事であることを装うための「演出」ではないか、と前掲の朝日新聞は疑っている。

他方で、細野氏や福山氏の暗躍に見られるように、この会談は外務省を通さず、政治(家)主導で行われたという側面が大きい。それゆえASEMには外務省の中国担当課長が菅氏に同行しなかったし、菅氏に中国語の通訳もつかなかった。自民党外交部会ではこの会談で日本側に中国語通訳が不在であったことに批判がなされ、危機管理の観点から問題であるとして追求する方針だという*4

政治家の「演出」のために、中国語通訳がつかなかったのか。外務省が仙石工作をあてにしていなかった*5――その工作を知らなかったはずはないであろう――がゆえに、英語を介した会談しかできなかったのか。

以下、続く。

日本語は、地理的には中国語や朝鮮語と近い場所で話されているにもかかわらず、これらの言語とはほとんど全く似ていない。ヨーロッパの各言語が相互にある程度までは似た単語や発音などを有していることと比較するならば、ヨーロッパ人にとっては不思議な事情のように思えるかもしれない。また近年のヨーロッパの高学歴層(ギムナジウム(大学進学を目指す高校)や大学を卒業した人々)は母語だけではなく隣国の言語を2つ3つは習得し、かなりの程度にまで流暢に話すことができる。他方で日本の高学歴層には、中国語や朝鮮語を使える人は、日常会話程度ですら少ない(わたし自身は全くわからない)。

こうしたヨーロッパの事情と日中の事情との違いは、歴史的な経緯も考慮されないわけではないが、そもそもは相互の言語が似ているか否かに由来していると言っても過言ではない。つまり、例えば英語とドイツ語との近似性に比べれば、日本語と中国語はその地理的近さにもかかわらず全く似ていない、ということである。

中国のような隣国とすら英語を介して会談を行うようになったということは、いよいよ日本も英語グローバリズム(あるいは英語帝国主義)の波に抗いがたくなったことの証明かと一時は思われた。ところが、各種の報道で言われているように、あえて中国語を使用しなかったのは「演出」の一環であるとするならば、もちろんわたしが邪推したこととは関係がない。けれども、それは却って“ある一つの言語を使わない”ことによって行われた巧みな言語政治なのではなかろうか。