Who's DEAD?--"He's dead. I'm sad."

今年の春先に拙宅を訪れたある男はマイケル・ジャクソンMichael Jackson)の大ファンで、夜通し彼について熱く語った挙句に、仙台へと帰っていった。

正直、彼がどうしてジャクソンが好きなのか理解できない。わたしたちの世代の人間で、ジャクソンが好きというのは、あまりいないであろう。確かに彼はキーボードを演奏する経済学者だが、唄ったり、まして踊ったりすることを趣味にしているわけではない(多分)。でもまあ、他人の趣味なんて理解する必要はないのだ。わたしのヘヴィメタル趣味だって他人にはなかなか理解されないし、理解されたいとも思っていないのと同様に。

かたやわたしは、ジャクソンに大して興味はない。ついでに言えば(今となっては)晩節を汚した晩年の奇行は、アメリカン・セレブにありがちな悪趣味だと思って、呆れこそすれ、興味や敬意など抱くべくもなかった。

だが友人は違った。「よい音楽と、それを作った人物は区別して評価すべきだ」と断言した。つまり、いかにジャクソンの晩年の奇行が印象として強かろうとも、彼が生み出した音楽の評価は貶められないというわけである。それはまさしくその通りだろう――とは思うが、わたしはポップ・ミュージックにはあまり興味がないので、結局のところ、「ポップの伝説的な王」の楽曲群についても、正当な評価を下せないのが本音である。

わたしがジャクソンの死を知ったのは、携帯電話に配信される文字ニュースのテロップを見た、26日の早朝である。それを見ても、わたしは全く驚かなかった。27日(土)の読売新聞(朝刊)は「編集手帳」で書いている、「あまりにも早すぎる――と書きかけて、ためらうものがある。痛ましいほどに長く生きてしまった人を見ているような、奇妙な錯覚が脳裏を去らない」と。わたしはこれに同感である。

読売新聞の記者ならば「やっと逝ったのか」とは書かないであろう。彼の死の第一報を聞いたとき、わたしは不謹慎にもそう思った。というのも読売新聞と同じように、わたしも「痛ましいほどに長く生きてしまった人を」見ていたような気がしていたからであり、今は尚更その思いを強くしている。

読売新聞の「編集手帳」と同様に、東京新聞(27日付朝刊)の「筆洗」もまた、ジャクソンの「孤独」を強調している。目も眩むほどの眩い光と、苦悩が渦巻く漆黒の影を、矛盾を承知で共に抱え込んでしまった彼の人生が幸せなものだったとは到底思えない。いま彼は、自らの死でもって、それから解放されることができた。彼の死因は未だ特定されてはいないが、それが仮に自死だったとして、誰が彼を責めることができようか――もっとも、彼の死は自殺ではないであろうと根拠のない確信を抱いているのは、わたし以外にもきっといるであろう。R.I.P.