環境犯罪誘因説と陪審員制度――秋葉原無差別殺人事件に関するドイツの新聞記事から

最初に、コラム:第65回 - 日々徒然を、
次に、コラム:第64回 - 日々徒然を、参照のこと。

本稿は、08年7月20日付投稿コラム:第65回 - 日々徒然の続きである。

ドイツ人記者は何を主張したかったのか

ナイトハルトの記事は、たった4段落しかない小さなものだ。恐らく『ズュートドイッチェ・ツァイトゥング』(SZ)紙における国際面のいち記事でしかなかったはずである。

そのうちロットが噛み付いたのは第3段落目の記述である。ロットに言わせれば、ナイトハルトは「曖昧なほのめかしによって、現場と犯行はお互いを引き寄せ、悲劇はヴァーチャルな暴力表現の中に根を下ろさなければならないという印象が想起されるべき*1」と示唆しているように思われる。そしてロットはこのようにも言い切る。「この記事の趣旨は事件に対して単眼的な視点しか持っていない。*2

ところで、ロットも同様の感想を抱いたかどうかは定かではないが、第3段落目でいきなりヴィデオゲームと加藤智大の犯行とを結びつける“かのごとき”記述が出てくることに、唐突な印象は否めないであろう。なぜナイトハルトは第3段落目でこの話をしなければならなかったのか。

そして同様に、記事末尾における新裁判制度に対する言及も、かなり唐突である。この新裁判制度とは、言うまでもなく、来年度09年度より実施される「陪審員制度」のことだ。

ナイトハルトの主張を簡単にまとめると、このように言えるであろう。自身も二次元キャラクター文化の愛好者であった加藤智大は、その文化の発信地でありかつ聖地である秋葉原で、残酷な暴力ヴィデオゲームの内容を“あたかも想起させる”ような犯行を起こしたが、彼を待ち受けるのは、“必ずしも司法のプロではない一般人”陪審員を務める新裁判制度のもとでの断罪である。

キーワードは「環境犯罪誘因説」

ロットとは異なり、私自身は、ナイトハルトを単なるゲーム否定論者と理解してはならないと考えている。むしろナイトハルトは、「環境犯罪誘因説」の危険性を示唆しているのではないだろうか。

私は社会学や心理学、あるいは犯罪学の専門家ではないが、私なりに環境犯罪誘因説について説明すると、加藤智大の犯行を例にとるならば、科学的論証を経ずに安易にヴィデオゲームの暴力的な内容が残忍な犯行を引き起こすと考える説である。「幼女誘拐犯は“フィギュア萌え族”だ」と言い切り、実際にはその犯人がフィギュアどころか二次元キャラクター文化の愛好家ですらなかったことが明らかになったにもかかわらず、自説の誤りを認めないジャーナリスト大谷昭宏(1945-)は環境犯罪誘因説の支持者であろう。そして言うまでもないことだが、(脳神経科学者ではなく!)生理学者森昭雄(1947-)が提唱する「ゲーム脳」なんてのは典型的な環境犯罪誘因説である。

なおこの説は「犯罪行為の全てが、単純に環境によってのみ影響されるものではなく、当人に内在する性格的な問題(人格障害など)により強く関連するものとする限定効果論によって否定されている*3」という。

恐らく、この環境犯罪誘因説とは、大概が犯罪学の専門家ではない門外漢の脳裏に降って沸くのではないだろうか。だからナイトハルトは「彼を待ち受けるのは重罰である。来年から日本では新たな裁判制度が始まる*4」と言ったのではないだろうか。

繰り言になるが、陪審員制度のもとで陪審員を務めるのは、犯罪学に精通しているわけでもなければ、司法の専門家でもない、ただの一般人である。映画『十二人の怒れる男』(1957年)でも見られるように、陪審員制度に基づく裁判においては、陪審員の心証一つで量刑が変わりうるのだ。

軍配はSZ紙の記者に

それゆえ、ロットのナイトハルトに対する苦情は、やや的外れであると言わざるを得ない。読み手を選ぶような、読み手に高度な教養を求める記事であるが、それに込められたナイトハルトの危惧は至極真っ当である。それが読み取れなかったロットは分が悪い。

その記事の翻訳を行った私は、ドイツの高級紙のレヴェルの高さに驚かされた。ここまで高度な知識と読解力を要求する新聞は、日本にはおよそ存在しないであろう。私はロットには、SZ紙はやっぱりverdammt(ものすごく)によい新聞なので、定期講読を解約せずに読み続けることを切にお勧めしたいところだ。