公教育の自死と「受験」の経済活動化

毎日.jp『学習塾費用:東京都が融資、無利子で低所得世帯に−−格差解消狙う』

東京都は中高生が受験のために通う学習塾費用を、低所得者世帯に無利子で貸し付ける制度を始める。保護者の経済力によって生じる恐れのある教育格差の防止を目指す全国初の取り組み。8月にも受け付けを開始する。

都によると、通塾費は中学3年に年間上限15万円、高校3年に同20万円を無利子で貸し付ける計画。大学や専門学校受験料も対象とし、区市町村の相談窓口で申請を受け付ける。高校や大学の合格を条件に返済を免除することも検討している。

対象は課税所得が60万円以下の世帯。年収に換算すると▽2人世帯約260万円以下▽3人世帯約320万円以下▽4人世帯約380万円以下。都は中学3年約1800人、高校3年約900人への貸し付けを予定している。【木村健二】

◇受験制度改善も必要−−藤田英典国際基督教大教授(教育社会学)の話

受験競争の過熱化とシステム化が進めば進むほど、家庭の経済力が受験結果に反映されるのが現状なので、保護者や子どもの不安を解消するために、通塾費用を貸し付けるのは、公平性の観点から一概に否定できない。テクニックに習熟するために塾での系統的な訓練が必要になる制度の構造的な改善も求められる。

毎日新聞 2008年4月17日 東京朝刊*1

東京都当局は、自分たちでは生徒たちに対してもはや高校や大学の受験指導をすることができないと白状しているらしい。だから塾に行けと、塾に行けない人は都がお金を出しますよと、そう言いたいらしい。

都当局のそのような態度表明は、実際の教育現場において学習塾への通学はなくてはならないものだと認めていることに他ならない。杉並区立和田中学校の「夜スペ」「どてら」――公立中学校の保護者と地域住民たち自らがその中学の校地で行う「学習塾」――は猛烈な批判を受けているが、結局都当局は、和田中のやり口を踏襲しているにすぎない。むしろ、和田中よりも露骨である。

あの石原慎太郎東京都知事新銀行東京への更なる財政投融資に際し、「民間、民間と信用しすぎて民間に任せるとダメだ*2」と発言した。かつてこの男は東京都立大学をぶっ潰し、後継のクビ大(首都大学東京)では英語など一部の科目を民間に丸投げして混乱させた経緯を持つ。なるほど彼はじめ都当局は、銀行経営は役人が行い、教育こそ民間に任せるべきだと考えているそうだ。

一応は私企業である新銀行東京の経営に行政が乗り出すべきであるかどうかについては、本論の趣旨ではないので、ここでは多くを語ることができない。ただ言えることは、銀行経営はそもそも行政に課せられた業務ではなかったことは確かであるということだ。

それに引き替え教育は、日本においては、かなりの程度で行政に課せられた役割である。だから、もし受験指導が教育の範疇に含まれるものである――従来は確かにそうであった――ならば、行政がしっかりと面倒を見るべきであろう。それを放棄するということは、公教育の自死を意味することに他ならない。

あるいは、もはや受験は教育の範疇に含まれるものではないとも言えるかもしれない。志望校に入学することが各生徒の自己実現に繋がるならば、それは教育のなすべき営為であるし、その指導をすることが学校の役割であるだろう。ところが、一概には言えないかもしれないが、各生徒が目指す「自己実現」の内容は、「いい企業に入って、高い給料を貰うこと」に画一化されてきてしまっている。そうなると、受験はもはや教育ではなく、経済の範疇に含まれる。そのためにはいわゆる「一流大学」に入らなければならない。すなわち、中学生や高校生の受験は、もはや彼らの経済活動なのである。1年半前に日本全国の高校で発生した必修科目未履修という事態は、受験に効率性を求める人々の意識が顕在化したものと言えるだろうが、効率的な成果を求めるという態度自体がもはや経済活動に従事する者に典型的な発想である*3

受験が本当に「教育」にあるものであるならば、実は、その受験結果に扶養者の経済格差が反映していても問題ないのではないだろうか。東大に入ろうがどこの大学に入ろうが、生涯賃金が大体同じであるならば、経済活動という観点から見れば、どこの大学に入学しても違いはないからである――大学を選ぶのは、各受験生の自己実現の観点からである。ところが「高い給料を貰う」というところに誰しもの「自己実現」の内容が集中しているから、経済格差が問題となる。平等な経済活動のスタートラインが要求されるから、扶養者の経済格差を是正することが行政に求められるのである。