Lauter Verriss zu den »Honig und Klee.«(1)

ハチミツとクローバー』(以下『ハチクロ』)初回、視聴率12.8パーセント。この数字が何を物語るか、今のところ私にはわからない。だが私は、開始10分で飽きた。もしあと3か月この調子が続くかもしれないと思うと、成海璃子の身体(のコピー)を観るためとはいえ、絶望的である。

まず予め断っておかなければならないことは、私はマンガであれ、小説であれ、映画であれ、テレビドラマであれ、およそ恋愛ものは大嫌いであるということだ。だから私と、マンガ『ハチクロ』を原作とした一連の作品群とは、非常に相性が悪い――まあそんなことは、昨年の10月、すなわちドラマの制作発表がなされたときからわかりきっていたことだが。

だが、そうした私の個人的な趣味を抜きにしても、こんにちにあっては“古典的な”異性愛的のストーリーはもはや明らかに時代遅れであることは断言できる。今クール各局のドラマを眺め見渡してみたところで、いくらか恋愛ものの要素を含むものはあるだろうが、コテコテの異性愛的ラヴロマンスは、本作のみである。

異性愛的ラヴロマンスは時代遅れ

ハチクロ』と同じ制作局であるフジテレビの月9においてかつて顕著であったように、あれほど称揚されていた異性愛ラブロマンスが、こんにちなぜ採用されなくなってきているかについては、いくつかの理由が説明できるかもしれない。しかしここでは私は、ただ1つの理由を強調して述べておきたい。すなわち、こんにち恋愛はもはや異性間のものだけではないことが、世人に明確に認識されたのである。

「どんだけぇ〜」が昨年の新語・流行語大賞トップテンにもなったことは、その受賞者であるIKKOや、あるいは同じゲイタレントであるKABA.ちゃん假屋崎省吾たちが、世人たちの中により一層受け入れられていることを示すものである。それのみならず、07年12月31日の『第58回紅白歌合戦』という日本で最も保守的なテレビ番組の一つに、IKKOら“お笑い系”のゲイタレントではなく(実際は彼らも出演していたわけだが)、性同一性障碍を告白している中村中(戸籍上は男性だが、外見は女性)が紅組として出演したことは注目に値する。もはやゲイタレントはお笑い系であること、つまり同性愛者であることをネタにする必要はなくなり始めたのである。また美輪明宏が50年前に受けた仕打ちのような、同性愛者に対する偏見も、完全になくなったとはまだ言い難いが、相当に薄くなってきていることは確かである。

少なくとも男性同性愛者が世人の認知を受け初めていること、そしてそのことと表裏一体のように、異性愛的ラヴロマンスのドラマが作られなくなってきていること、その両者の関係性は何を物語るのだろうか。

異性愛的ラヴロマンスは、他の領域では未だに大いに通用している。今冬新垣結衣の主演でヒットしている(らしい)映画『恋空』は、私に言わせれば嫌悪の対象以外の何ものでもないベッタベタの異性愛的ラヴロマンスである。『ハチクロ』がマンガでヒットし、アニメ化も成功し、映画でもヒットしているが、それらの領域とテレビの領域は決定的に異なっている。前者は特定の趣味を持った人だけを相手にしていても問題ないが、後者は万人に受ける商品を提供しなければ評価されないからだ。この場合の「万人」とは、言うまでもなく世間一般の人々を指している。私の言葉で言えば「世人」と呼んでもいい。

あすなろ白書』との比較

大体、マンガが原作で大学生5人の恋愛模様と聞いて、93年にフジテレビの月9でドラマ化もされた『あすなろ白書』(原作:紫門ふみ)を思い出した私は年寄りだろうか。私の友人をして「キャストがイマイチ」と言わしめる『ハチクロ』に対し、『あすなろ白書』は当時若手の中で最も注目されており、そのうちのほぼ全員が現在でも一線級で活躍する俳優たちを起用していた。何と言っても木村拓哉が脇を固めていたことは、特筆すべきである。

同作は、石田ひかり(当時21歳)演ずる園田なるみと、筒井道隆(当時22歳)演ずる掛居保の恋愛模様を軸に描かれるが、木村拓哉(当時21歳)の取手治がなるみに、鈴木杏樹(当時24歳)の東山星香が掛居に片思いしている。そしてドラマの中盤で視聴者を驚かせたことは、西島秀俊(当時22歳)演ずる松岡純一郎が実は同性愛者で、掛居を愛していたことである(この松岡が作中で事故死してしまうことに、私たちはなお驚かされた)。同作において、すでに異性愛ラヴロマンスに対するアンチテーゼが示されていたことは忘れてはならない。初回視聴率24.7パーセント、平均27.0パーセント。藤井フミヤが唄う主題歌『TRUE LOVE』もストーリーの雰囲気に見事にマッチし、ダブルミリオンという大ヒットとなった。

「あすなろ会のメンバーで当時良く知っていたのは石田ひかりさんだけでした」*1と言う当時の視聴者もいるように、『ハチクロ』のキャストたちが現段階であまり有名ではないことは問題ではない。重要なのは、すでに証明されているかどうかは別として、その役者たちが役者として実力があるかどうかである。彼らに実力があれば、本作を機縁として注目されていくだろう。そしてさらに重要なのは、その役者が、その演じるキャラクターと合っているかどうかである。

俳優たちの、固定的イメージの有無

それらを判断するのは、これからの作業になるだろう。初回だけでは何も言うことができない。但し後者に関して速断ながら少しだけ述べておくと、原作やアニメ、映画を観ずしてでも、成海璃子(15歳)は花本はぐみに、生田斗真(23歳)は竹本祐太に合っているのかどうかという疑問が私には沸き起こっている。言うまでもないことだが、前者と後者が共にうまくいっていれば、そのドラマは自ずから好評を博すことになるだろう。

ところがテレビの場合、往々にして後者が重要視されるように思われる。一時期の木村拓哉のように、ある一人の俳優が毎度毎度似たような配役に当てられるのはなぜだろうか。あらゆるケースでそうであるとは言わないが、視聴者は俳優毎に何らかの固定したイメージを求めているからであろう。

俳優ごとにできる役柄、できない役柄は当然あるとしても、成海に関して言えば、彼女は恐らく何でもできる。世人には彼女に対する特定の固定したイメージはないにしても、散々彼女を観ている私においてもそれがない。だがそうした俳優としての長所が、テレビにおいては有利に働くかどうかは別問題である。自ら「自分は個性がないところが個性だ」*2と断言する蒼井優に、テレビドラマへの出演が多くないのはなぜだろうか。『フラガール』(05年)以来、少なくとも私は彼女の演技力を極めて高く評価している。所属事務所に政治力がないのでなければ、理由は固定イメージの欠如以外には考えられないだろう。

結局、決定的なことは最終回まで言えないわけだが、私が望むことは、成海璃子をもってしても私が視聴を挫折せざるを得ない事態にはならないでほしい、そして『あすなろ白書』の粗悪な模造品にならないでほしいということである。何と言っても、私はベッタベタなラブロマンスで、批評心をまったく掻き立てられないような古臭い物語が大ッ嫌いで大ッ嫌いでどうしようもないのだから。


ついでに、アメリカの詩人エミリー・ディキンソンに、「草原をつくるにはクローバーとミツバチがいる」で始まる詩があることを示しておく。このことは、英文学者の飯嶋良太・福島大学准教授のブログに教えられた*3。もっとも、『ハチクロ』とディキンソンのこの詩に何の関係があるのかは、わからない。