本当の「わたし」、本当の「友だち」――映画『あしたの私の作り方』を観て

福島県福島市まで行くのに、私が自家用車を使わず、高速バスを利用したのは、ただ単に一時間も運転するのが面倒くさかったからである。

この点、地元の人間ならば、迷わず自家用車を選んだことだろう。時折帰省するとはいえ、私の東京生活も5年目である。東京では言うまでもなく鉄道を日常の足としている。いよいよ私も東京の人間になってきたということの証左だろうか。

福島市に赴いたのは、映画を観るためである。先日の投稿でも言及したが、福島市の映画館で成海璃子主演の『あしたの私の作り方』が上映されているからである(9月8日から14日まで)。福島県内での公開は、今回ここだけである。

4月28日にこの映画が初めて東京で公開されたときには、私はまだ成海璃子のファンではなかった。正確を期せば、4月20日にオンエアされた『介助犬ムサシ学校へ行こう〜』(フジテレビ系)で私は彼女の演技を初めて・・・観た。そうして私は彼女にヤラレテしまったのである。

今年は春以降、成海の主演作が3本立て続けに公開されているが、私が気づいたときにはいずれも東京での公開は終わりかけていた。今回私が観た『あしたの私の作り方』も同様で、東京では8月25日からの三軒茶屋での公開が最後だったと思うが、それも私が帰省のタイミングを逃しているうちに公開終了となってしまった。福島県で本作を観ることができたのは、まさに渡りに船であった。

ちなみに私が現在滞在する郡山市から福島市までは片道800円、すなわち往復は1600円である。東京の場合、拙宅最寄り駅から三軒茶屋までは最安で片道540円、往復1080円である(恐らく定期券を併用するから、金額はもう少し低くなるはず)。福島市では月曜日のメンズデー料金の1000円で観れたが、三茶では学生料金の1100円で観ていただろう。従って、福島市で観るために私は2600円も使ったが、三茶だったら2080円で観れたわけである。……差額520円は安いと見るか、高いと見るか。

しかも、福島駅に到着した途端雨がザブザブ降り出してきやがったから、駅ビル内のマツモトキヨシで400円の傘まで買う羽目になった。まーた余計な出費が……。

成海璃子の真骨頂を見たり

世人の場合、成海璃子を初めて体験したのは『瑠璃の島』(日本テレビ系、2005年)だったり、あるいは『1リットルの涙』(フジテレビ系、2005年)だったりするのだろうが、私の場合は前述の通り『介助犬ムサシ』である。だから私が彼女に[表象=再現前]リプレゼンテーションしてもらいたいものは、同ドラマで彼女が演じた板倉久美子のようなキャラクター、すなわち15歳の成海と同年代の少女、多感な感性を持ちつつも、時にそれを胸に秘めつつ、時にそれを溢れさせる少女であった。

だが世人が彼女に求めるものと、私が彼女に求めるものは、恐らくそうは違わないように思われる。というのも、私は彼女の全作品を視聴してきたわけではないが、彼女がこれまで演じてきた役柄は、ただ一作を除いて・・・・・・・・、私が上で述べたようなキャラクターであったように推察されるからだ。除外される一作とは、現在放映中の『受験の神様』(日本テレビ系)である。

これは『受験の神様』に対する批判にも通じるであろうが、菅原道子は(今のところ)世人が求める成海璃子[表象=再現前]リプレゼンテーションしていないのである*1。そのことは、『受験の神様』の初回視聴率が14.7パーセントと比較的高く、第2回以降が見るも無残に低迷し、視聴者が離れていったことに言えるであろう。ドラマの視聴率というものは大抵初回と最終回が一番高かったりするものだが、初回の数値の高さは、このドラマに対する世人の期待の半分以上は成海璃子という若干15歳の女優に向けられていたことを証明している。

その点、『あしたの私の作り方』で演じられた寿梨は、私の求めていた成海璃子であった。私は映画や演技の門外漢である。だから「成海璃子だからこそ寿梨を演じられた」とか言うつもりは毛頭ないし、同じ寿梨という役柄を誰か成海と同年代の役者が演じたとしても、上手くやり遂げられたかもしれない。しかし私は成海のリプレゼンテーションにこそ最高のカタルシスを覚えた。

とっくに資本主義に映画は回収されている。玄人の映画評論家は私のこのような映画の、そして演技の受容方法に苦言を呈するかもしれない。だが鑑賞後のカタルシスを得るために私たちは入場料金を払っているのだから、成海の演技がどの作品を観ても単なる“コピペ”だった――つまり、どの役柄も似ている――としても、私のようなシロウトは意に介さない。

爽やかな鑑賞感

寿梨のモノローグとともに語られる映画の物語は、一貫して落ち着いた“流れ”を形成し、観ているこちら側がドキドキさせられることはない。誰も不幸になることがない映画である。

逆に言えば、恋人が不治の病で死ぬとか、その病の治療費を援助交際で稼ぐとかいうようなお手軽なギミック・・・・・・・・は、この映画には存在しない。お手軽に涙し、“感動”なるものを手に入れたい最近の流行にはまった人々にはお勧めしない。

本作において特筆すべきは、本作が女優デビューらしいAKB48前田敦子の演技である。シロウトの目を惹いたのは、彼女も含めて、“演技のヘタクソ”な役者が多く出演していたことである。それは褒め言葉である。つまり、演技がくどくない、演技が演技っぽくないのである。

現代思想「日常」や「普通」が表象不可能であることを主張していることを承知で言うが、この映画がスクリーンに映し出す「日常」は、いかにも「普通」っぽいのである。先にも述べたが、本作の中では突飛なことが一切起こらない。パンフレットの中にひときわ大きい文字で「大人になった少女たちに、見てほしい物語があります」と記されているが、この映画では、かつての少年少女が誰しも経てきたドラマが表象されているのである。また私は寡聞にして知らなかったが、監督の市川準長回しやドキュメンタリー的手法で撮影することで有名なのだそうだ*2。彼の表現方法もまた、本作の“映画”からの逸走に拍車をかけている。

バラエティ番組では「太い眉毛の天然パーマ」「当たらない天気予報士」などと揶揄される石原良純と、昨冬に暴露本でセンセーショナルな話題を振りまいた「プッツン女優」(本作の撮影は本の出版前だった)石原真理子は寿梨の両親役である。いかにも“濃そう”な両石原の夫妻も、収まるべきところに収まっている。都知事の息子に関して言えば、初めて私は彼を役者だと、それも巧みな役者だと認識した。

結局のところ本作は青少年の成長を清々しく描いたビルドゥングスロマーン(Bildungsroman、成長小説)なのだろうが、鑑賞感は極めて爽やかである。けれどもこういう映画を観て清々しい気分になれるということで、私は自らの老いを感じずにはいられない。中学や高校の頃のひねくれた私ならば――ひねくれているのは今も同じだが――、素直に観られなかっただろう。

*1:どんなドラマにも当てはまるセオリーだが、謎めいた登場人物は物語の終盤、もしくは最終回でその正体が明かされる。そのとき『受験の神様』でも結局は、菅原道子も今まで成海が演じてきたいずれの少女とも異ならないことが示されるような気がするが、実は私はそれを期待していない。道子のほんのわずかな心境の変化と成長が示されつつも、しかしやっぱり「ロボット女」だったというほうが個人的には面白そうだと思う。

*2:本作パンフレットより。