自由・孤独・全体主義

私は全体主義のメカニズムを研究している。尤も、「全体主義」というよりは、それを下支えする「個人の大衆埋没」に研究対象がシフトしている自覚はある。詳細はまたの機会に譲るが、ナチスドイツからアメリカに亡命した社会心理学者エーリッヒ・フロム(1900-1980)によると、孤独な個人が全体(大衆)への参加を求めるようになるというのである。

私は只今フロムの『自由からの逃走』*1を読んでおり、個人の自由と孤独について思案する日々である。そんな折、以下の新聞投書を読んだ。

孤独だなんて それは間違い(横浜市青葉区 高校生 17歳 女性)

小学生以来の友人が3月末、自殺した。悲しいというよりも、まず唖然としてしまった。病気などで悩み、いつも「私は孤独だ」「生きていても迷惑なだけ」と言っていた。

でも、彼女の死を聞き、小学校以来連絡をとっていなかった友人から、続々と連絡が来た。彼女の家を訪ねると、驚くほどたくさんの人が彼女の死を悼んでいた。

それを見て、「彼女は決して孤独ではなかった」と思った。こんなにも多くの人に愛されていたのだ。

人は孤独だと感じても、実際、数え切れないほど多くの人とつながって生きている。たくさんの人が自分を知っている。遠くからでも想ってくれている。

彼女には、そのことを生きているうちに感じていてほしかった*2

この投稿者は「孤独」(ソリチュード、solitude)と「孤立(感)」(ロンリネス、loneliness)を混同している。私も冒頭から「孤独」を迂闊に使ってしまったが、この両者は区別されなければならない。この区別は、フロムと同様にナチスドイツからアメリカに亡命した政治哲学者ハンナ・アレント(1906-1975)を参考にしたものである。

ソリチュードは物理的な「ひとり」の状態、ロンリネスは精神的な「ひとり」の状態、とでも言おうか。孤独(ソリチュード)は文字通り一人でいることを意味するのに対し、孤立感(ロンリネス)は寧ろ他人と共にある時却って強く感じられるという。手元の英英辞典を引いても、lonelinessの語源lonelyは「人が独り(alone)だったり、話し相手が誰もいないと感じているので、不幸せ」な状態のことを言うのに対し、solitudeは「独り(alone)の状態、特にそれを人が楽しんでいる時」と対照的である。

この引用された投稿文に即して言うと、投稿者の自殺した友人は、孤独だったから自殺したのではなく、孤立感を味わっていたから自殺したのである。フロムは前掲書において「孤独感の重荷から解放されるための一切の方法が失敗したときには、自殺を空想することも最後の希望である」(p.171)と述べている。フロムの原文を参照していないのでわからないが、この「孤独感」はアレントに倣って「孤立感」と読み替えても差し支えない――原文ではlonelinessではないか――と思われる*3

最近若者を中心にリストカットが流行っている旨の報道が多くなされることがある。これをミュンヒハウゼン症候群*4と見るならば、自殺はその病の、最も悲惨な例と言えるだろう。

「人は孤独だと感じても、実際、数え切れないほど多くの人とつながって生きている」。このことに異論はない。しかし投稿者の自殺した友人は「そのことを生きているうちに感じ」られなかった――即ち、孤立感を味わっていた――から、自死の途を選んでしまったのである。

私に言わせれば、この投稿文からは、現代人のドライさしか感じられない。投稿者は勿論その良心をもって友人の死を悼み、だからこそその無念を伝えるために、筆を執る労を厭わず新聞に投稿したのだろう。しかしその悲しみ方、悼み方が、定式化された現代的な――学校で道徳の時間に教えられるような、或いは、「金八先生」で謳われるような――やり方にしか思えないのである。アウシュヴィッツユダヤ人たちがナチスドイツに虐殺された事実を初めて知った時、「ナチスの非道を許せない」と思うことは人間らしいのか。しかし、アウシュヴィッツの遺構を目の当たりにした者たちは、その凄惨さに思考が吹っ飛ぶ――何も考えられなくなるのだという。私には、その方が、人間の矮小さ、脆弱さを体現しており、余程人間らしいと思う。

「小学校以来連絡をとっていなかった友人」たちが連絡し、葬式に参列するのは、果たして本当に故人を悼んでいるのか。その振舞いは、現代人の定式化された作法のひとつなのではないのか。それに無自覚な投稿者の無邪気さこそが、私には却って自殺者の寂しさを偲ばせる。現代人のドライさ――自分は温情ある人間だと思い込んでいるにも拘らず、孤立感が、寂しさが個人の自殺に結びつく想像力が欠如した、現代人たちの無神経さである。

私は、せめて自殺者の友人たる投稿者には「あなたは孤独じゃなかったのに、どうして自殺してしまったの」などとは言って欲しくなかった。これでは、自殺者の寂しさは虚空に雲散霧消し、投稿者の寂しさだけしか伝わってこない。自殺者の孤立感、寂しさに対する共感の念を示して欲しかった。




追記:日高六郎による訳文では「孤独感」とされている語は、原書*5では何と"aloneness"であった。即ち"The phantasy of suicide is the last hope if all other means have not succeeded in bringing relief from the burden of aloneness."(p.174)と。

手元の英英辞典を引くと、aloneは多義的で、solitudeもlonely/lonelinessをも含むようである。しかし文脈上フロムのalonenessは、アレントの言うlonelinessであることは間違いない。フロムが区別していなかった〈ひとり〉を、アレントは一歩進んで「孤独」と「孤立感」に区別したことになる。そしてフロムの「孤独感」は、アレントに倣って「孤立感」と読み替えると、一層理解が深まるだろう(以上、5月29日追記)。

*1:日高六郎訳、東京創元社、1951年〔原著は1941年〕 ISBN:4488006515

*2:朝日新聞06年4月23日付朝刊8面「読者のページ」より引用。投稿者名は割愛した。

*3:下の追記を参照。

*4:ウィキペディアによると「自分に周囲の関心を引き寄せるために虚偽の話をしたり、自らの体を傷付けたり、病気を装ったりする症例の事」とある。

*5:Fromm, Erich: Escape From Freedom, New York, 1941. ISBN:0380011670