現代団塊世代を批判する

昔、革命的だったお父さんたちへ―「団塊世代」の登場と終焉 (平凡社新書)

昔、革命的だったお父さんたちへ―「団塊世代」の登場と終焉 (平凡社新書)

地球における自然環境問題を論じる際に、環境倫理学者たちが言うのは「地球の、石油など有限資源を現在世代の人々が使い切ってしまうのは、未来世代の人々が持つ発展可能性を奪っている」ということだ。つまり、未来世代に使う分を残せないような資源の使い方を、私たち現在世代はやめよということである。それは換言すれば、古い人類による新しい人類からの搾取である。

なぜ本書の書評を記す冒頭で、いきなり環境倫理学の話題を提示したかというと、同じことが、古い人々による新しい人々からの搾取が、現代社会における小さな世代間で起こっているからである。本書の内容に即して言えば、団塊世代(1945〜1952年生まれ)の人々が旨味ばかりをすすり、そのツケを私たちポスト団塊世代(1952〜1960年生まれ)、新人類世代(1960〜1968年生まれ)、団塊ジュニア世代(1970〜1974年生まれ)、真性団塊ジュニア世代(1973〜1980年生まれ)*1が払わなければならない状況が現前としてあるということである。但し、マーケッターの三浦展が定義する真性団塊ジュニア世代より後に生まれた「ポスト真性団塊ジュニア*2世代の私としては、バブル景気に酔いしれた団塊ジュニア世代のツケまでも、真性団塊ジュニアとポスト真性団塊ジュニアの人々が払うことになりそうな実感がある。

本書の著者である1958年生まれの林と、1959年生まれの葛岡は、団塊世代の人々とはいかなる人種であるかを緻密に分析している。団塊世代というと、学生時代に1968〜1969年頃にゲバ棒*3とヘルメットを携えて学生運動を経験し、高度経済成長期末期(1970年頃)にはそれらを迷わず手放して就職(「就社」)し、1980年代のパブル経済期に家庭を持ちマイホームを購入し、1990年代の不景気の時期には社会の中堅となり、そして今、退職金を貰って「やり逃げ」る世代である。

林らは団塊世代を1946年から1951年にかけて生まれた人たちと定義し、その人口を1045万人と計算する。「わが国総人口の一割にも達する」*4。つまり量的なボリュームがあり、経済も政治も彼らの動向に左右され、それ故に経済的にまた政治的にターゲットとされてきたのである。逆に言えば、日本が現在のような姿になったのは、団塊世代の動向に大きな要因があるのである。

全く裕福でない家庭に生まれ、改善傾向にあるとは言え未だ就職難の時代であり、先の見えないリスクが多い時代に生きる私から見ると、団塊世代の人々は美味しいところばかりを得てきたように見えて仕方がない。

耐震偽装問題で有名なヒューザー社長の小嶋進は57歳、身障者スペース他の不正改造問題で有名なホテル・東横イン社長の西田憲正は59歳、いずれも団塊世代の人間である。小嶋は、違法建築で住民からカネを搾取した。生命をも搾取される可能性すらあった。自殺に追いやられた建築士は正に生命を搾取された。姉歯秀次は職人としての誇りを搾取された。徹底したコストカットで有名な東横インの西田は、やはり従業員を過剰労働で搾取している。カール・マルクスが描いた、19世紀イギリスのブルジョアジーを髣髴とさせる。

それだけではない。今の規制緩和政策を提言、また自ら政治家になって政策を推し進めた竹中平蔵は1951年生まれの54歳、やはり団塊世代の人間である。

本書の記述で、極めて興味深い部分がある。本書は2005年9月に発行されたものだが、先週1月25日に逮捕されたライブドア前社長・堀江貴文団塊世代の人々は評価しているというのである。即ち昨年2月に起こったニッポン放送買収巡るフジテレビとの対立に際して、団塊世代ホリエモンではなくフジテレビに反感を示したと述べる。

団塊世代は人数が多い分、昨今のリストラで大いなる被害を受けている。

一方ではグローバルスタンダードに合流するだの、成果主義だのと言って、真面目に働いてきた社員を切り捨てておきながら、他方では企業文化だの企業文化だのといったことへのこだわりを捨てない(フジ・サンケイグループがそうだと言っているのではない。念のため)、そうした企業経営者たちの姿勢に対する、団塊世代からのアンチの意思表示だと考えれば、納得が行く。

さらに言えば、前項で、日本が階級社会化しつつある問題について簡単に触れたが、フジ・サンケイグループのようなマスコミ大手は、いわゆるコネ入社の比率が高い。これは今や公然の秘密もある。

そうしたエリートや、

「お金さえあればなんでもやってよい、というものではない」

などと、したり顔で述べる政治家たちに、

「お前が言うな!」

といった反感を覚えたのすれば、団塊世代にも、まだまだ最後の反骨くらいは残っているのかと思える。*5

自民党が「団塊世代のアイドル」堀江を担いだのは、実に意義深い。その堀江は1972年生まれだから、見事に団塊ジュニアの世代である。但し「団塊ジュニア」だからと言って、団塊世代の子供という訳ではないのは、三浦展が論証している。事実、父親の奉文は62歳だから、ぎりぎり団塊世代には入らない。マスコミ報道によると、堀江の方から自民党に公認要請をしたのが最初らしいが、ともあれ、堀江と自民党の利害が合致したからこその、昨夏の衆院選だった。恐らく堀江は、自分が大衆(その大部分は団塊世代)にウケていると確信していたはずである。

その堀江も、落ちた先は拝金主義という点では、先に述べた団塊世代ブルジョアジーどもと変わらない。粉飾決算という「偽装」疑惑で自殺に追いやられたと言われる元社員がいる以上、それは生命の搾取である。そして、「ヒラ」団塊世代が支持していた堀江が、結局「ヒラ」が嫌っていた「ブルジョア団塊世代と同じ理由で裁かれる構図は、何とも皮肉である。団塊世代の賢君諸氏は、昔を回顧し――或いは懐古してもよいが――厳しく自己批判すべきだ。

林らは本書をこう締め括る。

あなたたちは、このまま消えて行くべきではない。

白髪頭だろうがハゲていようが、ヘルメットを被り、ゲバ棒を握り締めて(杖にもなりますぜ)霞ヶ関に押しかけるくらいの気概を示せば、今度こそ日本を変える力となる。なぜなら、あなたたちにはもはや、失うものなどないではないか。*6

しかし私は、もし団塊世代の人々がそんなことをしたとしたら、偽善と断じるだろう。全共闘以来、彼らにそんな能力は見えたことがない。寧ろ私たち若い世代――団塊ジュニアすら含まない、極めて若い世代――こそが、彼らに引導を渡すべきだろう。そうすることこそが、「日本を変える」ことだと思うのである。古い世代にばかりオイシイところをやるわけにはいかないのだ。

*1:「ポスト団塊世代」以外は、三浦展の定義による(ポスト団塊世代は、三浦を参考に私が定義した)。詳しくは『下流社会』(光文社新書)他の三浦の著書を参照。

*2:三浦を参考にした私の定義。1981年以後に生まれた世代を指している。

*3:ゲバルト(独語で「暴力」)棒の略。乱闘に用いる角材などのこと。

*4:p.208

*5:pp.213-214

*6:p.216