『ドラえもん』声優主要5人の降板にあたって

【芸能】ドラえもんの声が交代へ−来春、大山のぶ代さん降板*1

 テレビ朝日系の人気アニメ「ドラえもん」で四半世紀にわたってドラえもんの声優を務めてきた大山のぶ代さん(68)ら主な声の出演者5人が来春、若手と交代することが21日明らかになった。

 後任の人選が進行中で、交代決定を受け入れた大山さんは「テレビ放送から25年がすぎ、ちょうどよい交代の時期。遠い未来までずっとずっとみんなに愛される『ドラえもん』であってほしい」と話している。

 「ドラえもん」はゴールデンタイムに2けたの視聴率を取る同局の看板アニメ番組。原作者の故藤子・F・不二雄氏が「ドラえもんはこういう声だったんですね」と認めたほど、大山さんらははまり役で、人気の原動力になっていた。

 交代が決まった主な出演者は大山さんをはじめ、のび太役の小原乃梨子さん(69)としずか役野村道子さん(66)、ジャイアンたてかべ和也さん(70)、スネ夫肝付兼太さん(69)の5人。

 関係者によると、テレビ朝日側は今春から大山さんら出演者と協議。放送25周年で一区切りついたことや、出演者の高齢化などを理由に、主な声優陣の一新を決めたという。

 放送中のテレビシリーズは来年3月分まで現在の出演者で収録し、4月分から後任の声優陣にバトンタッチする予定。

 テレビアニメ「ドラえもん」は連載漫画を原作に1979年にシリーズ放送が開始。交代する5人は第1回放送から同じ役を継続して担当、80年から「ドラえもん のび太の恐竜」など劇場版映画25作品にも出演した。

ドラえもんの良き演奏家−人気アニメ支えた声優陣

 テレビアニメ「ドラえもん」で声の出演をしてきた大山のぶ代さんら5人は、放送スタートから25年の歴史を「長いようで、あっという間だった」と振り返る。

 5人は原作者の故藤子・F・不二雄氏が認めたプロの声優たち。5人の声によるアニメは「ドラえもん・クラシック」として、ファンの間で記憶され、今後も愛好されるのは間違いない。

 名せりふ「ぼく、ドラえもん」は「ドラえもんの心を声にしたかった」と話す大山さんのアドリブの中から生まれた。

 のび太役の小原乃梨子さん、しずか役の野村道子さん、ジャイアン役のたてかべ和也さん、そしてスネ夫役の肝付兼太さんがそれに応じ「声のハーモニー」を作り出すことに成功。「原作の良さを引き出せたのでは」と大山さんも分析する。

 「5人の平均年齢は60代後半。きれいにバトンタッチできれば」と小原さんは明かす。「『ドラえもん』を後世に手渡ししていく。藤子先生からの大切な預かり物だったんですから」

 原作を楽譜に例えるなら、5人は作曲家が信頼した演奏家。野村さんは「女の子の正しい日本語の美しさも伝えたかった」とし、たてかべさんは「元気、勇気、人気の3つの『気』が子どもたちへのメッセージでした」と解説する。

 「今では子どもだけでなく大人も楽しみにしてくれる。『ドラえもん』って偉大だなとつくづく感じます」。肝付さんはしんみり語った。

私は明日早いので、速報まで。詳細はのちほど述べたい。それにしても、ショックだ……。(1:05記す)


1979年アニメ放映開始ということは、84年生まれの私は、まさに『ドラえもん』を見て育ったと言うことができる。『ドラえもん』が故藤子・F・不二雄の漫画が原作であるということは周知の通りだが、大山のぶ代があてるドラえもんの声を聴いて「ドラえもんはこういう声だったんですね」と原作者が感動したというエピソードは新聞記事に載る以前からファンの間では有名な話である。本来2次創作物であるはずのアニメが原作に影響を与えたという点で、アニメにおける「声」の力はまことに偉大であると実感せざるを得ない。

フランスの社会学者、ジャン・ボードリヤールは「ポストモダンの社会では、作品や商品のオリジナルとコピーの区別が弱くなり、そのどちらでもない『シミュラークル』という中間形態が支配的になると予測していた」(東浩紀動物化するポストモダン』〈講談社現代新書*2より引用)が、『ドラえもん』においてはどちらがオリジナルでどちらがコピーということはなく、さりとて共にシミュラークルであるはずもない。藤子が晩年は劇場用アニメの原作漫画のみを描いていたということからも、漫画とアニメは相互補完しあって『ドラえもん』は成立しているのである。

ドラえもんは藤子の絵のみで成立せず、大山の声を得て初めて「完成」した。他の登場人物たちも同様である。「ドラえもんはこういう声だったんですね」という原作者の率直な感動は、それを如実に言い表している。

「声」の力はまことに偉大だと前述したが、一体読者諸氏の中にドラえもんが大山以外の声で動いていることを想像できる人がいるだろうか。私にはまず不可能である。原作者を含めて漫画からアニメから、あるいは全ての関連商品に携わる全てのスタッフが「あの声のドラえもん」を想定して、仕事をしているのである。別の声になった時に私たちの頭の中で、新しい声とかつての声との齟齬が生じることは、恐らく必定である。

しかし私は、彼らが後任にバトンタッチしたいという意志を否定しない。のび太役の小原乃梨子が語る「『ドラえもん』を後世に手渡ししていく。藤子先生からの大切な預かり物だったんですから」という言葉は実に感動的である。

私がボードリヤールの用語を紹介したのは、原作者がこの世を去っている現在、何をもってオリジナルとすべきかを提起したかったからだ。しかしオリジナルの片翼を担ったアニメの声優は「預かり物」と言う。それは原作漫画やアニメすら「小さな物語」*3と見なすような発言である。では対になる「大きな物語*4は何か。それはドラえもんたち自身なのではないだろうか。

以前テレビ番組の企画で興味深かったのは、ドラえもんたち5人とその声優5人が画面上で会話を繰り広げるのである。勿論これはあらかじめ声優たちがキャラクターの声を録音しておいて、あとから声優自身の声と姿を収録するという、いわば「独り芝居」と同じような構図である。しかしアニメの声優たちも制作者たちも、そういうことが可能であるということを無意識に自覚している。また視聴者である私たちも違和感がない。それはつまり、「声優」と「キャラクター」を全く別物と認識してもよいということの証明である。

無論、私たちが本当に「声優」=「キャラクター」を信じているわけではない。しかし『ドラえもん』が「不思議な道具で不可能を可能にする」物語であるだけに、転倒したその事態も違和感なく受け入れることが可能なのだろう。それは、能や歌舞伎といった伝統芸能の筋書きが、演者を変えつつも長年親しまれてきている様子に似ている。

原作者やアニメの声優たちという「小さな物語」がいなくなっても、ドラえもんたちという「大きな物語」は未来永劫在り続ける。『ドラえもん』を見て育った私たちの子供たちも『ドラえもん』を見て育つのである。69年放映開始の『サザエさん』においてはすでにその状況は始まっている。また『サザエさん』は、主要キャラクターのカツオ役を長年務めた声優の交代劇(故高橋和枝から富永み〜なへ)を乗り切ってなお好評を博し続けている。『ドラえもん』のよい手本となり得るだろう。同様にしてアニメ開始10年以上が経過し、アニメが原作に影響を与えている『ちびまる子ちゃん』や『クレヨンしんちゃん』も同じ試練を迎える日が来ることは予測し得ることだ。

同年代の友人たちは口を揃えて「『ドラえもん』ももう終わりかな……」と悲観的なことを言う。だからこそ試金石にもなり得るのである。アニメにおいて「小さな物語」が移ろい変わっても「大きな物語」が変わらなければ、その作品は存在し続けるかどうかが注目である。その時こそ、サブカルチャーの枠組みで語られた「ジャパニメーション」が「文化」の域に一歩前進する瞬間である。

ドラえもんよ、永遠に。(2214字、11月23日 3:30記す)

ドラえもん学コロキアム(富山大学教授・横山泰行氏のサイト)
http://www.inf.toyama-u.ac.jp/doraemon/

*1:http://www.sanspo.com/sokuho/1121sokuho088.htmlより引用(09年2月12日現在、確認不可)。

*2:isbn:4061495755

*3:「特定の作品のなかにある特定の物語を意味するもの」(『動物化するポストモダン』より引用)という評論家・大塚英志の言葉。

*4:「特定の物語を支えているが、しかし物語の表面には現れない『設定』や『世界観』を意味する」(『動物化するポストモダン』より引用。一部改変)という、同じく大塚の言葉。