(大学受験生を応援⑤)焦らば回れ

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私にも覚えがあるのですが、入試が近づけば近づくほど、周りの受験生が『できる奴』に見えてきていませんか? 部活動を引退して受験勉強に集中しだす友達がどんどん増えてきて、「アイツ放課後図書館に残ってやってる」とか、「アイツ成績超上がってる」とか、しまいにはその本人が「このままいけば、オレ●●大学受かるかも」とか言い出すなど、そんな会話がちらほら増えてくる頃合だと思います。


そして受験生であった私はこう思ったのです。「マジかよ? ヤバイの俺だけ?」てな具合に。心当たりのある方はいらっしゃいませんでしょうか?


ですが、他人の努力や結果を評価しだすというのは、つまり裏返せば、そうすることで自分の努力や結果を慰めるということです。というのは、みんながみんなを誉めだすわけで、そうすることで慰め合うというか、傷をなめ合うというか、間接的な自慰行為だといえなくもないのです。


別に私はそういった受験生の心理を非難するつもりはありません。というのは、そういった戦友の励まし合いがない戦いというものは、実は非常に辛いからです。


私にはこういう経験があります。実は今春ある試験を受けるために、昨年4月から1年間黙々と大学図書館にこもって勉強していました。この試験はあまり受ける人がいないので、私の周りには受験生がいませんでした。またその試験に受験することも、その受験勉強をしていることも、周囲の友達には黙っていました。つまり孤独な戦いを1年間強いられていました。


するとどうなるか? 私は受験のモティヴェーションをどこに見出していたか? 端的に言ってしまえば、ルサンチマン、つまり『怨念』でした。というのも、私にとってはある種のリベンジ戦といって差し支えない試験だったからです。やる気とか根性といった精神もあるといえばあるのですが、それらも結局怨念を持つがゆえに持続せられたわけです。なかなか稀有な経験をいたしました。


だから、志を共にする仲間がいるという状況がいかにすばらしく、いかにありがたいかを、私は身をもって知っています。だから大いに励ましあい、共に切磋琢磨するのがいいと思います。孤独な戦いは本当に辛いです。私の場合は志を共にできる仲間がいなかったがゆえに、孤独な(つまり、大学で友達を作らない)戦いを選んだとも言えます。知り合いのいない土地(私の場合は東京)で、また敢えて新たな知人を持たないことを選択した大学1年生はどういう精神状態に追い込まれるか? 私の場合は、4月から2ヶ月間は気が狂いそうでした。


話が私事にそれたので、元に戻しましょう。共に励まし合い、切磋琢磨するのはいいのですが、ただそれが快感になってしまってはいけません。このように傷をなめ合っていると、現実が見えなくなってしまう可能性が生じてしまうからです。例えば実際は模試の成績が芳しくなくても「①は出来たんだけど、②は出来なかった。②ができれば合格点に届くんだよ」「結構できてんじゃん。②できれば受かるんじゃね?」といった具合に、傷をなめ合うことによって、正解できなかった部分、つまり不完全な反省部分が朧化【ろうか】されてしまう可能性を指摘したいのです。


人間とは悲しいもので、孤独でも不安定になりますが、同志があってもやはり精神的に不安定になってしまう生き物のようです。だからこそ自らを自ら律する意志の力が必要になるわけです。私の場合は、それがたまたまルサンチマンに根ざしたものであっただけです。


また、ちょっと冷たい言い方ですが、そういった励まし合いも一歩引いて、までとは申しませんけれども、どこかに客観的な視野を残しておいた方がいいと思います。そもそも結論からいうと、「アイツこのままいけば受かるんじゃね?」という私達の主観判断はよく当たりません。たとえ「アイツ」が模試の合格判定でAやBを取っていても、大学というところは気持ちよく不合格の烙印を押してくれます。特に旧帝国大学や、早慶*1やMARCH*2などの難関校で顕著のようです。私の経験則ですが、「なんでアイツが落ちたの……?」という話は、「やっぱりアイツは受かったな!」という話と同数くらいに耳にしました。だからこそ、私が当コラムの主たる読者対象として想定している、逆転合格を期する受験生の勝利もあるわけなのです(私も多分その1人だったのでしょう)。


というわけで、今どれほど慰めあっていても、また周りの受験生が頭よく見えても、結局結構落ちます。ですがこれを不安がる必要はありません。だって受験というものは、必ず合格者と不合格者の二極化するものですから。「そんな言い方するなよ」とお叱りを受けそうですが、私だって実際に口にするのに、そりゃ良心も痛みました。とはいえ、事実を指摘し、直視させるのも私の使命だと自認しております。現実を認識せずに生きるのは、子どもの世界の住人であると断じます。


タイトルに掲げた「焦らば回れ」とはこういう意味です。自分も回りも、落ちるかもしれないけれど、受かるかもしれない。今から受験までの時間的距離は必ず等しい。そして今までも、経てきた時間は必ず等しい。今焦ってもしょうがない。急いでも先回りすることは不可能だ。だから前だけを向いて、しかし常に後ろを反省しながら、粛々と前進し続けよ。そういう意図を込めました。


矛盾する文言ですが「冷静に熱狂せよ」と私は言いたい。つまり自分を複眼的視野で多角的に観察しながら受験勉強に打ち込めと申し上げたいのです。そうすればヘンに浮かれることはないし、無意味に不安になることもありません。「受験は自分との戦い」としばしば言われるならば、こうした心づもりを持っていても悪くはないと思います。(2387字)


To be continued to 20041024......

*1:早稲田、慶応義塾上智の各大学の略。

*2:明治、青山、立教、中央、法政の各大学の総称。