安積高校と権威主義

2004年9月15日付のコラム同様、安積高校116期の文芸部長を務めていた友人から、9月13日付批評文『『3代顕彰』は無意味である』に対するメッセージを受けている。今回もその全文を引用して紹介したい。彼には最大級の感謝の意を表する。

尚、本文は本来ならばコラムというカテゴリー名を与えられるべきなのだが、9月13日付の文章が批評という体裁を取っており、同じカテゴリー内で管理する為に敢えて批評というカテゴリーに入れるものとする。蛇足であるが、予めご了承願いたい。

(9月13日の批評文はこちらを参照されたい)

安積高校権威主義。
これも概ね、コラムの内容に同感である。
しかし、この考えは最近気付いたことであるが、
「権威を嫌うのは、権威を手に入れていないから」ということは考えられないだろうか。
(勿論それだけではないだろうが。)
僕には少なからずその傾向があった。
だが、権威に異を唱えられるのもまた権威でしかない。
漠然と“偉い”という権威であったり、数の権威であったり、金の権威であったり。
権威を得ながら、権威を盾にしないというのが本物の人間性の持ち主であろう。
そういう人物には、権威があたかもハロー(光輪)のようにすっとおのづから現われるのだ。

とまあ、ここまで書いたところで話を戻そう。
「権威がない=権威を持つ者への反感」という感情は、およそ無意識下のものである。
(故に本人は気付いていない場合が多い)
人間は、自分が(人間性において)不利になる
(この場合は他人に“攻撃的”だと思われる)ことを無意識下に抑圧しようとするからだ。
そして、安積高校の一部の人間が客観的事実としての道徳的正義に反する者であるかは、
僕には判断がつかない。
(なぜなら、僕の無意識下には上のような反感があるからだ。)
同様に、あの文章もコラム(私見で書かれたもの)である。
つまり、この延々と書いたなかで僕が何を言いたいのかと言うと、
「個人的には同感であるが、その“個人的視点”を超えることはできない」ということだ。

なんか、書いているうちにまとまらなくなってきた。

それともうひとつ思うのは、「人間は、どうしても必死になってしまう時がある」ってことかな。

予め言っておかなければならないのは、批判にせよ賞賛にせよ、そういった文章を書くためのモティヴェーションというものは、大概が『個人的視点』に端を発するものである。それは私に限ったことではない。それを『客観的に』固めて(理論武装して)初めて、批評といった体を成すのである。もし私の文章に客観的視点が欠如していると取られるならば、それは私の勉強不足以外の何物でもない。だから、個人的視点が希薄で、良し悪し両方を取り上げる一般紙の論説のような文章が『悪文』であるのは、札幌大学教授・鷲田小彌太氏の指摘するところである。よって私は、ある1つのパースペクティヴの提示として、私の意見を『理論武装して』著すのである。

だが、権威に異を唱えられるのもまた権威でしかない。

私にもし『権威』なるものがあれば、それは同窓会とは全く異なるところに依拠する権威であろう。それを私は『感じるか、感じないか』という言葉に表す。私は同窓会の権威主義を『感じた』のである。即ちそれを知覚するに至る『学識』であるとか『経験』という言葉に置き換えられても、意図の埒外ではない。

私が高校在学中から感じていたことであるが、よく「安積高校に誇りを持っている」と言う人がいるが、何か『誇り』という意味を履き違えている人がとても多いように感じている。これは卒業してから特に強く感じるようになった。端的に述べてしまうと『母校と近隣他校を差別的に比較する』といったことである。これを高校在学中とか、また野球の応援中にするのとは別の問題であることは言うまでもないだろう。恐らく、無意識にやっていることである。逆に言うと、高校生の感覚を引きずったまま卒業生をやってしまっていることに問題があり、また弊害(野球部屋内練習場建設にかかる一連の騒動が顕著だ)を生んでしまっていることは別の機会に言及したい。しかし、この多くの卒業生に顕著な『勘違い』は、安積高校それ自体が生徒に育ませる『母校愛』が呼び水になっていることは、残念ながら否定できない。何らかの上手な方法で是正されるべきである。

ここまで語ってみると、先日言及したアメリカの問題点と、安積高校卒業生の問題点との共通点が浮き彫りになりはしないだろうか。即ち『優生思想』である。安積高校の卒業生においては、友人の言葉を引用すれば「自分と異なる者の排除」の為に、無意味な権威を示し、他校の卒業生との差別化を図り、優位性を示そうとしているのである。それは学閥生成とも呼べそうな一連の運動だが、私には世の学閥全てからして好ましいとは思われない。

『3代顕彰』については、繰り言になるが理論的な意味も意義も理由も全く見出せはしない。誰か見出せる人がいるならば、どうか私に指摘してほしい。3代に渡って同じ高校に通った家人がいる一族が多いのは、120年という、ただ他校より早く創立しただけではないのか。その程度の部分に自らの『母校への誇り』だとか『母校愛』の依拠理由を見出すならば、私は全く情けないと断ずる。勘違いなどではなく、母校に対する認識が甚だ甘いと非難する。

権威を得ながら、権威を盾にしないというのが本物の人間性の持ち主であろう。
そういう人物には、権威があたかもハロー(光輪)のようにすっとおのづから現われるのだ。

権威を自ら示そうと画策する者ほど、権威が得られないということだ。即ち同窓会の『権威主義』は、虎の威を借る狐のそれと大差がないということだ。これに美徳を感じられないということは、これまた私の繰り言である。『威を借る』と『異を刈る』(=『自分と異なる者の排除』)という同音異義の言葉遊びも、この文脈においては意味ありげに光を放ち始める。

そして、安積高校の一部の人間が客観的事実としての道徳的正義に反する者であるかは、僕には判断がつかない。

恐らく、というか間違いなく、それらの卒業生には悪意はないだろう。しかしだからといって批判を免れるというものではない。寧ろ母校の同窓会は批判に大分疎い。故に自分達に対して否定的な意見に、非理論的に激怒することだけしかしない。多様な視点を受け入れようという柔軟な思考が見受けられない。映画『華氏911』の監督、マイケル・ムーア氏はこう言う。「私はこの映画で私の視点を提示した。それらを多く取り入れて自由に議論することが重要なんだ」と。

それともうひとつ思うのは、「人間は、どうしても必死になってしまう時がある」ってことかな。

120周年記念募金委員長が書いた文章に致命的な誤字があり、それがいつまでも訂正されなかったことに、【安積桑野会】掲示板上において批判があった。僭越ながら私としても、この募金委員長である先輩の尽力は評価はしたい。しかしながら批判されるべき部分は甘んじて受けなければならないのだ。「こっちだって頑張ってんのに、何で批判されなきゃならないのよ」と逆ギレするのは筋違いであり、公的な立場にあるならば尚更である。

同窓会執行部とはいえ人の集まりである。つまりそこにいる人1人1人が執行部であり、執行部と一般卒業生との繋がりは、人の人の繋がりに他ならない。執行部構成員の誰かの人間性に問題があれば、私達一般卒業生は距離を置かなければならない。それ即ち同窓会と一般同窓生との乖離を表す。同窓会には、批判に対して柔軟な姿勢を求めなければならない。