続・反テロ戦争の構図を読み解く

2004年9月12日付のコラム『20010911から3年』に対する意見が、安積高校116期の文芸部長を務めていた私の友人から寄せられた。以下に全文を引用し、私の意見を付記したいと思う。この形式は私が本来望んでいたコラム/批評の形であり、貴重なメッセージを寄せて頂いた友人には心から感謝したい。
(9月12日のコラムについてはこちらを参照されたい)

コラム読みました。
『9.11』という言葉自体が、ただの日付という意味を超えて、
反テロ戦争の代名詞的拠り所になっている。なるほどと思いました。
僕もアメリカは好きではないです。
コラムの中で、キリスト教の精神は白人以外を人間とみなしていないという
背景で出来上がったと書かれていますが、
今のイラクへの攻撃はまさにそれだと思います。
(キリスト教の成立期に、まだ有色人種が“発見”されていない、
という背後関係はあると思いますが。)
イラク攻撃はテロ撲滅の戦いである以前に、宗教対立であり、
つまり「自分と異なる者の排除」のための戦いであると言えます。
ただし、この「他者の排除」欲求とでも言うべきものは、人間誰しもがもっているものでしょう。
問題なのは、それを思想から行動へと突き動かした別の要因があったことです。
言うまでもなく、資源です。
ここでも彼の国の優生思想が絡んでくるのですが、
彼らは世界の資源をも自分の手元に置きたいと考えた。
そして、それが行動の原動力となってしまったわけです。

これらは、人間性に深く染み付いたものです。
内なる文化が発展し尽くしたら、そのエネルギーが外側に向かうのは明らかなことです。
僕ら(将来のですが)臨床家が対応できるのは個別の、しかも対処療法的なケアだけです。
人間性まで変えていくことは出来ない。
だから、このケースは個人個人が問題意識を持っていかなければならない。
ただ、日頃から意識していないものを自分から意識するというのは容易ではない。
そのため、僕たち既に意識を持っている者たちが、日常のなかで何気なく、
少しずつ意識が変わるよう働きかけていく。それが必要だと僕は思います。
千里の道も、とか、塵も積もれば、とか言いますしね。

裏切られても裏切られても、僕は人を信じたい。

私の意見について賛成してくれた彼に同調する訳ではないが、私も彼に概ね賛成したい。

「自分と異なる者の排除」のための戦いであると言えます。

この点は、アメリカ合衆国においては特に顕著なのではないかと思われる。今でこそ経済面でも、軍事面でも世界の頂点に立つこの国であるが、実はあらゆる点で他の国々とは違った異端の面を持っているからだ。

例えば、この国の人々は絶対王政を経験したことがない。勿論移民以前のヨーロッパにおける経験は無視している。故に彼らにとっては、キリスト教における神以外の絶対者は存在しない。寧ろこの神すら、その絶対性の威厳が危ういことは誰の目にも伺えることだろう。よって、かつては『現人神』と称えられた日本の天皇や、イスラム教徒の絶大なる信仰心は、彼らには奇異としか、受け入れ難い『気持ちの悪いもの』としか映らないのではないか。北朝鮮におけるキム・ジョンイル氏の存在にしたって同様である。だから彼らはイラク北朝鮮を『ならず者国家』として排除したがるのではないかという私の見方は、決して穿ってはいないはずだ。

また、短い歴史の中で対外戦争に負けた経験がないというのも、アメリカならではないだろうか。ベトナム戦争はと言うと、確かに社会主義陣営に敗北した結果にはなったとしても、アメリカにとっては代理戦争であって、自国自体が敗北したとは認識されないであろう。即ち敗北の痛みを未だ知らないのだ。

言葉を選ばぬならば、無知ゆえに暴挙を働くことが出来るのであり、それ故に世界の頂点に収まっていると言うことが出来る。そして現在、そのアメリカがグローバル・スタンダードを常に規定し続けてきている。実は、これこそが最も恐ろしいことなのではないだろうか。だからこそ、『反テロのための戦争』が容認されつつある風潮が広まっているのではないか。

問題なのは、それを思想から行動へと突き動かした別の要因があったことです。
言うまでもなく、資源です。

かつてアメリカがそれを理由に侵略戦争を仕掛けたことはあったかもしれない(例えば湾岸戦争など)が、私は少なくとも今回のイラク戦争を、資源の略奪などという『高尚な』(と敢えて言うが)理由に基づく戦争とは見ていない。今回の戦争はただ単に、「未知の驚異に怯える無知な子供が、いたたまれなくなり、泣いて暴れ出した」程度にしか思われない。『やられたら、やり返す』という、小さな子供ならば親に叱られて然るべき構図における惨事である。しかしアメリカは図体だけは大きく大人と見違えるようであり、旧宗主国のイギリスを遥かに越えて成長してしまったのだ。

大義名分であった大量破壊兵器(これもまた、何と抽象的で曖昧な理由であろうか)は見つからない。そうした時、批判者達が目に留めやすいのは土地柄石油などの地下資源であろう。また現在、結果としてアメリカがイラクの石油を牛耳ろうとしていることも事実である。しかし、ならば米兵がイラク人の捕虜を虐待、扼殺し、あろうことかそれをビデオに撮影するなどという非人間的な行為を行い、またそれを上層部が抑制することが出来なかったのだろうか。この統率のなさは、表(大量破壊兵器)にせよ裏(地下資源)にせよ、共通認識として各人が持つべき確固たる戦争の理由付けが存在しないことの裏づけとはなりはしないだろうか。

僕たち既に意識を持っている者たちが、日常のなかで何気なく、少しずつ意識が変わるよう働きかけていく。それが必要だと僕は思います。

だからこそ私はこの文章を書いている。彼のように私の言葉に応えてくれる人を、今後とも求めていきたい。私と賢明なる読者諸氏との対話の中で、新たな世界の秩序のかけらでもいいから、見出せるならば慶賀の至りである。