20010911から3年

いわゆる『世界同時多発テロ』が発生した2001年9月11日から、今日(執筆しているのは9月12日の午前1:30だが)で3年が経過した。9月11日が安積高校の卒業生ならば、母校の創立記念日であるということは既知のことと思うが、『9.11』のお陰で、私は母校の創立記念日も、また高校の友人の誕生日も一生覚えていることになるだろう。

この事件が起きたまさにその日を、私は鮮明に覚えている。前述の通り母校は創立記念日のために、9月11日は休校なのだが、母校はそれを期末試験の日程(安積高校は前期・後期の二期制)に組み込み、私達の休日は見事に試験勉強に費やされるのである。しかし当時高校2年生の私は、目の前のテレビが伝える映像を、どこかのフィクションのように感じていた節があると思う。そしてかかってきた友人からの電話でも「おっかねえなぁ」「信じられねえよ」と、私も友人も、二の口を上手く継げなかったをはっきりと覚えている。

ここで私の思想を明示しておく必要があるかもしれない。私はアメリカ合衆国という国が好きではない。寧ろ嫌いだと言っても過言ではない。これはイラク戦争が始まる以前からの感情である。明確にいつから、と線引きをすることは不可能だが、はっきりと自覚したのは、沖縄で米兵が日本人女子高生を強姦したという事件からだと思う。気付けばこの時の対応の仕方と、先日米軍ヘリコプターが沖縄国際大学の校地に墜落した時の対応の仕方が、同じである。アメリカは全く大嫌いだ。

私は『9.11』というこのタームを好ましく思ってはいない。どこかしら、何故かしら、アメリカ合衆国の大儀なき暴挙を正当化するための合言葉として用いられていると感じられるからだ。では世界のどのくらいの人が、どのくらいのアメリカ人が、8.6や8.9という日付を知っているだろうか。賢明なあなたは20030320という日が何の日であるか覚えているだろうか。『9.11』という数字は、皮肉でも何でもなく、その数字を掲げること自体がアメリカ擁護に寄与することになると私は思う。

本稿でイラク戦争の、或いは全ての戦争の是非を論じるつもりはない。共通理念として『人殺しは絶対悪』が存在することに異論を挟むつもりはないし、もはや不毛である。同様の理由でテロリズムも地球上から必ず排斥されるべきだと考える。

しかし何故私達は『人殺しは絶対悪』という理念を抱いて今に至るのかということを、今一度考え直す必要があるのではないか。私は、白人が布教したキリスト教の精神による影響が多大なのではないかと考える。即ち、それは白人が提供したルールなのであると考える。

キリスト教の理念に僅かばかり触れてみるならば、それは『人類皆平等』がまず現れる。だが言い換えれば「平等なのは人間だけ」であって、狩猟民族が生み出したキリスト教は、実は牛や豚などの畜生は殺しても構わないという。この点仏教では『一切衆生悉有(しつう)仏性』(三省堂大辞林第二版によると「すべて生あるものは、ことごとく仏となる可能性を有している」とある)というように、「生きとし生けるもの皆平等」という考え方なのである。

私はどちらの宗教が優れているなどということを議論したいのではない。しかし白人の考え方の根幹にあるキリスト教の理念の一部を明らかにしたかったのだ。そして白人には、黒人などの有色人種をまさに『畜生のように』奴隷として支配してきた否定不可能の歴史がある。根強い差別は未だ存在する。私が、白人は自分達以外を『人間』だと思ってはいないのではないか、と思ってもおかしくはない理由が一通り揃ったであろう。

無論この理論は極論でディティールに欠ける部分が多分にある。しかしながらそれらの部分を差し引いても首肯される部分も少なくはないと思う。そしてアメリカ人にこの傾向が強いのではないかということも、同様である。

私は現在、元早稲田大学政治経済学部教授の故・藤原保信が著した『自由主義の再検討』(岩波新書)を読んでいる。政治学を学ぶ者にとって必読文献であるという本書が書かれたのは1993年であり、藤原はその直後の'94年に亡くなっているので、当然この『9.11』は知る由もない。しかし当時ソ連・東欧の社会主義政権の崩壊直後であり、『自由主義』の勝利が叫ばれていた中で本書は世に問われている。藤原の慧眼に敬服すると共に、早世の学者を惜しむばかりである(藤原は59歳で亡くなったので、学者としては早世の部類に入るだろう)。

本書によると自由主義とは「経済的には資本主義を、政治的には議会制民主主義を基本とする社会であるといえる」(P.4 L.1)とある。つまり地球上の大多数を占める国が採用するシステムであり、日本も例外ではないし、アメリカを代表格に挙げたとしても異論の余地はないだろう。約10年前の世界から、藤原はそれらに再検討を要求しているのである。当時は恐らく同業者以外には見向きもされなかったのではないか。

前述の通り私は本書を今まさに読書中であり、本書について詳しく言及することは別の機会にいたしたい。しかしテーマである『自由主義の再検討』には完全に与したい。寧ろ、自由主義すら崩壊するのではないかと考えている。恐らく、平和的ではない方法を伴うことになるだろう。国の機構がドラスティックに変化させられるのは、戦争や革命が起こった時だということは歴史が如実に語っている。

アメリカ合衆国という国が崩壊するならば、それは全世界規模の崩壊を意味すると言っても間違いではないだろう。それほどこの国は強大なのである。しかし歴史において前例が存在するからこそ、私達は警鐘を鳴らし続け、判断しなければならない。考えず、呆然と看過するばかりという非人間的な人種から脱却することが肝要であり、そしてそれこそが、悪しきシステムからの脱却への第一歩になるのではないか。

最後に、旧サイトに掲載した、2年前高校3年生であった私の文章を引用して、筆を置きたい。

米現地時間で、昨年の9月11日の午前8時45分に、
世界貿易センタービルに一機目のジェット旅客機が追突しました。
今日は昨年の『米同時多発テロ』から1年経った日なのです。
貿易センタービルでは3000人余りの方が亡くなったと聞きます。
改めてご冥福をお祈りいたします。

1年前の今日はちょうどⅡ期中間試験の中日で、
私が試験勉強をしていたところにこのニュースでした。
初めて見たのは確か午後10時からの『ニュースステーション』で、
どうみてもハリウッドの新作映画の宣伝にしか見えなかったのです。
そのあとは、勉強そっちのけでテレビを注視していました。

さらに思い出されるのは、午前12時近くになって友人から電話が入り、
テレビの向こう、海の向こうの大惨事を、延々と一時間近く語り合ったのでした。
「おっかねえなぁ」「信じられねえよ」と。

しかし本文は、米合衆国を同情するものではありません。
寧ろ強く批判するものです。
そして米に偏った日本のマスコミも強く批判したい。
1年前のテロは、それまで恨みを買うようなことをしてきた米の結果です。
そしてまた、先日米空軍がアフガンを誤爆して死傷者を出した時も、
米政府は「米に責任無し」と言い直っているのです。

米の某紙は伝える、『This is war』と。
確かに戦争だ。おっしゃることはごもっとも。
しかしその火種は、イスラム原理主義者からではなく、
明らかに、世界の正義を振りかざすアメリカからのものである、と。



私はアメリカが大嫌いです。
(追記)このコラムに対する意見が私に寄せられた。全文を2004年9月15日付けのコラムに引用しているので、そちらも参照してほしい。 (04年9月13日 一部訂正、9月15日 追記)