必要とされる『動物化』の定義

初回の入筆であるが、新サイトに移行した当サイトの方向性を示すために、やや難しめの話題を供することにする。

というわけで、プロフィールにも挙げた、私の現行研究テーマである『人間の動物化』について記す。

『人間の動物化』とは、本当にヒトがケモノ化することを指してはいない。ごく抽象的な、或いは社会学的、哲学的な意味合いである。私自身がこのテーマに取り組み出してから非常に日が浅く、私の中でもまだその定義が固まっていないのだが、ある人は幼稚化と言うし、またある人は右傾化と言う。私自身は、群集心理に取り込まれ、全体主義に傾倒し、個体(個人)として理性的な判断が出来なくなることだと思っているが、まだ追求が甘かろう。この雑記を通して、研究を深められれば望外である。

『人間の動物化』に関連して、私は先日あるテレビ番組で、興味深い特集を目にした(以下、私の記憶がやや曖昧なので、間違いがあれば訂正してほしい)。

人間の行動を人間たらしめているのは、前頭連合野の働きであるという。自分で考えたり、行動することが少なくなると、この部分の働きが段々鈍くなっていく。

番組内で挙げられた興味深い例がある。それは、鉄道やバスなどの中で携帯電話で通話するというマナー違反も、この前頭連合野の鈍化に関連性があるというのだ。即ち、それが周囲の人たちにどれだけ迷惑を及ぼすか、考えが及ばないということなのだそうだ。

やや(タームとして)右翼的な話題に転じるが、義理や人情といった感情は、私は非常に(理性的に)人間的な感情だと考える。損得勘定といった短絡的感情から、一歩高次に及んだ感情ではないか(別にやくざを礼賛するわけではない)。他者を慮るマナーというものも、やはり理性的に人間的でなければ思慮しえないものだと言えよう。

マナーや義理を欠いた人間を私は『動物化した』と非難する。上記の通り、医学的な見地からも『マナーを欠く=前頭連合野の鈍化=人間の動物化』の構図は立証されたと言えるだろう。しかし最近、こういった人種は存外多いのではないかと強く感じている。例えば、最近は携帯電話のメールアドレスを頻繁に変更する人が多いようだが、かつてある程度世話になった人物に、その変更の連絡をしないとか……。

(追記)不勉強ながら私は『動物化』というタームで白眉のアレキサンドル・コジェーヴ氏や東浩紀氏の著作を読んだことがない(東氏の著作は現在読書中)。だがおぼろげながら聞くところには、東氏と私の、『動物化』の定義は異なるようである(比較するのも東氏に申し訳ないが)。しかし何らかの類似点を見出すのも難しくはなさそうである。私の研究をどうぞお待ち頂きたい。

(04年8月30日 一部加筆、9月2日 追記)